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この「身分」、すなわち「分」について、同伝では他に「与結分合好(与に分を結んで好みを合す)」や「恩深分厚(恩は深く分は厚し)」と使われています。後者は同返書内に確認できますから、用法は同じなのでしょう。「分為篤友」の対象である袁紹については、袁紹との関係からいって前者の語も無視するわけにはいかないと思われます。
この「分」を「身分」としてとらえると、確かに意味はとりにくいように思えます。ただ「結分」との語を見る限り「身分」というよりは、私的な関係に於いては,といった意味になるのではないかと思われます。
公的な関係や儒家思想においては序列も関係してくるかと思いますが、少なくとも私的な交友では「門生」等の特別なものを除いて同等かと思われます。また特に袁紹は「能折節下士」したといいますし、後漢では諸葛亮のいわゆる「三顧の礼」の如きものや、場合にもよりますが辟召によって辟主・故吏の関係を構築する場合においても、対等な立場で私的な関係を構築することはあったよです。(勿論これは「名士」とは別物ですが。)まして袁紹と臧洪の場合、両者は辟主と故吏の関係ではありませんから、袁紹と曹操の関係と同じく、官位の上では対等です。
また「権門の袁紹と父の代で初めて就官した臧洪とでは大きく隔たりがあると思うのです」との事ですが、少なくとも公的な場に於いては起家の時期は関係ないと思われます。起家の時期によって門生・故吏の数に違いがでて、それをもとにして地方の有力者子弟への影響力に違いがでてくることはあっても、私的な場にあっての序列は後漢時代には存在しません。
この後の時代でも、よく「貴族」や「門閥貴族」といわれますが、ここ20年位の研究動向を見るに、厳然とした門閥意識や階級構造は存在しなかったと指摘されるようになってきているようです。ましてや後漢時代には家格など存在しませんから、袁紹と臧洪にしても、私的な関係を構築する上で特に隔たりは無かったものと思われます。
なお郎についてですが、後漢時代、郎と為ることはそれほど珍しいことではありませんでした。孝廉その他に察挙された場合も、また中央の二千石以上の官にあるものは子弟一人を郎とすることができますから、これ自体は特別な意味をもたなかったと思われます。特に後漢も中ごろになると郎の数はきわめて多くなっていたようです。(その結果として、孝廉<辟召<徴召という状態になっていたようですが。)ですから孝廉の同歳でもない限り、それは特別な共通点とは考えられないかと思います。
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