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▼>7年の間に領土の変遷があるだろうと思いますが、
>とりあえず、建国当初の領土だけですが資料をご紹介致します。
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>建国当初の領土は、正史『三国志』の武帝紀に、213年5月後漢献帝が曹操を魏公に任命する辞令書に出てきます。郡国名がズバリ出ていますので、お手元の地図と照らし合わせて確認してみては如何でしょうか。
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>中華書局「三国志」魏書[一] 38〜39頁
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>「今以冀州之河東・河内・魏郡・趙國・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原凡十郡,封君為魏公.」
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>ちくま学芸文庫「正史三国志」魏書I 85頁
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>「今、冀州の河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原あわせて十郡をもって、魏公にとりたてる。」
史書を見ずに気軽に補足できることがあるので書いてみます(笑)
この時期より以前、群雄割拠の時代の州郡の状況を思い出すと、河東郡(山西省南部)や河内郡(河南省の北部、河南省の一部なのに黄河の北岸に位置する)は首都圏の司隷に所属する郡でしたよね。
つまりほんのしばらくまえまで、冀州の外にあった郡県が冀州に所属していることになっています。
たしか私の拙い記憶では、魏公就任よりそう遠くない時期に、漢の十三州の制度が九州の制度に再編成されていたはずです。
曹操は冀州牧も兼ねていたと思いますが、この冀州はすごくデカいんですよね。
河北の中国の州県のほとんどは冀州に吸収されていたと思います。
魏王の領土はどこまでだったか忘れちゃいました。
でも今は史書を見るのがめんどくさくてw
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