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>>中国湖南省の安郷県に子龍庵という所があります。
>>この場所に趙雲がいたとしたら、いつ頃なんでしょう?
>現在の安郷県というと常徳市の北東にあり、三国時代の公安の南になるようです。この地に趙雲がいたとすれば、一つは江陵攻落ののち劉備が公安に駐屯したとき(209年)と、桂陽太守への赴任をはさんで、もう一つは劉備の入蜀に際して公安を守ったとき(211〜213年)との二つが考えられると思います。わざわざ公安から離れた場所に駐屯したということなら、どちらかといえば209年の方ではないでしょうか。
さいわい、私の手元には唐代の湖南の地図があります。
掃除してたら、中国歴史地図集のコピーが出てきました。
それもなぜか拡大コピーでとったやつで、目にはやさしいですが、ページ全体がコピーできていない(笑)
拡大コピーというものはおもしろいもので、一瞬みて長江だなとおもった川が、川筋を上流に追っていくと、夜郎とか書いた地名に行き着くので(笑)
(その川はゲン(元にさんずい)水という川でした)
ああ、長江はもっと北を流れているんだ、とか、湖南は水脈によって雲貴や嶺南と結びついてることが明示的に脳裏に浮かんできます。
それはさておき、安郷県という名前ははじめて聞きました。清史稿の地理志には載っていない県名のようですね。
で、スレ主さまは湖南・湖北を行脚されてるというお話ですが、等身大サイズの中国を歩くと、発見の数々もあることと推察します。
よく上代では、周王朝は長江まで勢力が及ばず、淮水のことを江と呼んだのではないか?とか議論されるんですが(異説あり)、
それくらい中原王朝から縁遠いところだった湖南に、漢族と定義される人たちが定着しだすのが、(漢代が終わることで、漢の人という意味以上の語義が発生する)まさに三国時代ですよね。
その、なんというか、湖南って、劉備時代になってはじめて脚光を浴びるって性質もあると思うんです。
多分に日本人的な発想かもしれないですけど、現地で県を営んでいる安郷の人たちも、演義で親しい三国志の故将たちの歩いたはずの土地に愛着があるはず。
http://www.geocities.jp/keropero2000/china/konan.html
1928年発行の湖南の地図がありました。
28年だから、十五年戦争より以前の民国時代ですね。
それによると、その地図のDのbのエリアに「郷安(右から読む)」があるみたいです。
洞庭湖に入り組むような低湿地帯のように伺いますが、行ってみてどんなところだったんでしょうか?
田んぼは隅々まで広がっていました?森は残ってました?丘とか傾斜面もあったりするんでしょうか?(と質問してしまう私..)
さて無粋なことを考えますと、三国のときに安郷県に人は住んでいたんだろうか?という疑問。
安郷から西に行ったレイ(豊にさんずい)陽には既に城郭があったと思います。
そういえば、三国な話で、洞庭湖の戦いとか、そういう水戦って意外に数えるほどしかないですよね。
洞庭湖で戦ったって話は聞かないですけど、洞庭って巨大な垂直の洞穴って意味らしいですね。
不気味に水をためこんでいるって意味で。
そんな湖南地方が劉備の入蜀以前の拠り所だったんですから、さぞ何か逸話のひとつは転がっていることだと思います。
ついでに唐代の安郷県って、現在の安郷県より若干西側にあり、そして唐代の公安県の真南に唐代の安郷県があるようです。
現在は南北の水路があって、唐代の公安県から唐代の安郷県までは舟ですごく近いと思うんですけど、
そういう水利環境から、趙雲が私の県にもやってきたって発想が生まれるんだと思います。
すぐ近いってことは、土地の人が一番知っていることですから。
それで当時は南方系の蛮族もそこの近くに住んでいるはずで、それは別の機会にも調査しようかなと。
長文失礼を。
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