|
▼清岡美津夫さん:
>▼流水さん:
>>諸葛亮と共に名高いホウ統士元について質問です。
>>赤壁では確か呉の臣だったと思うのですが後に蜀の劉備に仕えてますよね?
>>これは周瑜死後呉に仕える気はなかったからでしょうか???
>>不思議なのはライバルでもある孔明が仕える劉備にどういういきさつで仕えることになったのかなぁ、ということです。孔明がホウ統を劉備に推挙したのでしょうか??(ライバル意識はなかったかもしれませんが・・・)
>>それともホウ統が自分から売り込んだのでしょうか?(周瑜死後)
>>
>>とても興味があります。
>>やはりホウ統は死ぬまで呉の臣で蜀のスパイとして動いていたのでしょうか??
>>どなたかご存知ありませんか?
>>
>>よろしくお願いします。
>
>こんばんわ。史書準拠でいきますね。
>赤壁のときは呉の部下ではありませんよ。周瑜が領南郡太守のときに部下でした。
>三国志蜀書[广龍]統伝だと、
>
>後郡命為功曹。(中略)呉將周瑜助先主取荊州、因領南郡太守。瑜卒、統送喪至呉、呉人多聞其名。
>
><清岡のテキトー訳>
>後に郡の命令で功曹になった。(中略)呉將の周瑜は南郡太守(の領地)をおさめることで先主(劉備)が荊州をとることを助けた。周瑜が亡くなると、[广龍]統は呉へ亡骸を送り、呉の人はその名声を多くきいた。
>
>となっているので、[广龍]統が南郡の功曹になっているとき、周瑜が南郡をおさめることで自然に周瑜の部下になったような印象を上記の文から受けます。
>さらにその後の記述で、
>
>先主領荊州、統以從事守耒陽令、在縣不治、免官。呉將魯肅遺先主書曰:「[广龍]士元非百里才也、使處治中・別駕之任、始當展其[馬冀]足耳。」諸葛亮亦言之於先主、先主見與善譚、大器之、以為治中從事。
>
><清岡のテキトー訳>
>先主(劉備)が荊州をおさめると、[广龍]統を従事として耒陽令をおさめさせたが、県に居て治めなかったので、免官となった。呉将の魯粛は先主に書をおくりいった。
>「[广龍]士元は百里(をおさめる)才能ではなく、治中・別駕の任につかせることで、その駿足をまさにすすめはじめるのです」
>諸葛亮もまた先主にそう言って、先主はこれを大器と見て良く語り、治中從事にした。
個人的な見方かもしれませんがこれはホウ統のパフォーマンスではないでしょうか?
いくら劉備が人材不足でもこの頃はそれなりに充実しており、中途採用の形なのでそんなに良い仕事が空いている訳でもなく、試験のつもりで令に任じたと思われます。それを逆手にとって何もしないことにより周りを動かすのです。
ホウ統は自分から売り込むよりも周りからの後押しを期待しての行動ではないかと思うからです。
この動きは蜀にいたホウ永年もしており直接主君に目通りするのではなく周りからの口添えで就活しているのをみると主君の近くにいる人に接近したり、知人からの後押しを貰うのが栄達の近道だったのかもしれないと思うしだいです。
>とあるので、単に自分が所属する領地を治める人が変わったので、そのまま変わったという印象を受けます。
単に自分の領地を治める人が変わったので、そのまま変わった?
この動きは徐州の陳登と同じで自州を治めるのは誰でも良いのですが、自分達の本籍を離れてまで従うのを嫌がったと見るのが普通ではないでしょうか。
名士でも単に自己の名声だけを上げて就活する人と何代にもわたってその土地で地位を築いてきた豪族の差がそうさせているのではないでしょうか。
>([广龍]統はそんな地位が気に入らなかったのでサボタージュしたんでしょうか?)
>その後、魯粛、さらには流水さんのおっしゃるとおり諸葛亮のすすめで劉備は[广龍]統をしかるべき地位につけます。
|
|