|
▼飛翔さん、孫ぽこさん、ゆららさん、白崎さん、清岡さん(NOBさん、菅原さん)、曹徳さん(加藤鍼灸院さん):
参考になるレスをありがとうございました。
レスひとつひとつに返事を書こうとも思いましたが、後から参照することの利便性と御礼の気持ちを込めて皆様の英知を結集した形にして残したいと考え、返事をひとつにさせて頂きましたことをお許しください。
当初、単純に何徳かを知りたいだけでしたが、意外と奥が深くてサンキューの一言では感謝の気持ちを表わせないと思い、そうした意図からも五行による徳の諸事情をまとめてみたいと思いました。私自身も勉強させて頂きました。
以下、まとめです。ひとつだけ疑問が残っていますが。より掘り下げて理解されたい方は、質問に対するレスの内容とそこから参照できる資料(ウェブサイトコンテンツ・書籍)をご覧下さい。(今回私は白崎さんご紹介の書籍まで手が回りませんでした。これも参照してみて下さい。)
本当にありがとうございました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
王朝交代劇において、権威の象徴である王朝政治体制を非難する行為は諸刃の剣であり、理論による執行者交代を説明して王朝政治体制を継続していく必要があった。
その理論とは? それは五行説。その五行の相関説が主に2つある。
相剋説:土木金火水 [紀元前3世紀頃]戦国時代に成立した思想→終始五徳論
相生説:木火土金水 [紀元前2世紀頃]前漢時代に成立した思想→帝王五徳説
■秦王朝の主張(相剋説)
黄帝:土徳
夏:木徳
殷:金徳
周:火徳
秦:水徳−黒色
■漢王朝の主張 高祖(相剋説)
黄帝:土徳
夏:木徳
殷:金徳
周:火徳
漢:水徳−黒色
備考:劉邦は秦を正式な(世襲した)王朝と認めなかった。→秦を倒す理由
■漢王朝の主張 武帝(相剋説)
黄帝:土徳
夏:木徳
殷:金徳
周:火徳
秦:水徳
漢:土徳−黄色
備考:儒教の国教化に伴い太初暦が施行されたが暦の矛盾を無くすために、秦を正式な王朝として認める必要が出てきた。
■漢王朝の主張 成帝(相生説)
伏羲:木徳
神農:火徳
黄帝:土徳
少昊:金徳
せんぎょく:水徳
ていこく:木徳
堯:火徳
舜:土徳
夏:金徳
殷:水徳
周:木徳
漢:火徳−赤色
備考1:帝王五徳説の採用と、高祖の秦を認めない方針を採用。
備考2:後に、劉秀は眉を赤く染め新の王莽と戦った(赤眉の乱)。→新を倒す理由
■魏王朝の主張(相生説)
周:木徳
漢:火徳
魏:土徳−黄色
備考1:土徳を主張する→漢から禅譲する理由
備考2:同じ土徳を主張する呉は認めない。→呉を倒す理由
備考3:漢を継承し火徳を主張する者を認めるわけにはいかず蜀と呼んだ。→蜀を倒す理由
資料1:『魏書』明帝紀・景初元年の条と裴注の高堂隆伝に土徳だから黄色を尊んだことが書かれている。
■蜀王朝の主張(相生説)
周:木徳
漢:火徳
蜀:火徳−赤色
備考1:火徳を主張する→漢を継承する理由
備考2:蜀は漢を継ぐ者という立場にあり、王朝の称号を「漢」とした。→魏・呉を倒す理由
備考3:史実として正統性を残した魏王朝からは蜀と呼ばれ、呼び方は現代にも影響している。
■呉王朝の主張(相生説)
周:木徳
漢:火徳
呉:土徳−黄色
備考1:土徳を主張する→漢から禅譲するにも魏に先を越され、存在意義の立証が難航して皇帝即位が遅れ、地方独立政権色を帯びる
資料1:『江表伝』の223年の呉の乾象歴使用の注に「孫権は呉では五徳の移りゆきから推測して、土徳が活動すると考えて・・・」という記述があり、相生説を採っていることが分かる。
資料2:呉の最初の年号が黄武であり、皇帝となった229年の年号が黄龍であり、相生説を採っていると考えられる。
資料3:『呉書』胡綜伝に呉の牙旗には黄龍が描かれていたとある。
■晋王朝の主張(相生説)
周:木徳
漢:火徳
魏:土徳
晋:金徳−白色
備考1:金徳を主張する→魏から禅譲する理由
備考2:土徳を主張する呉は認めない。→呉を倒す理由
備考3:漢を継承し火徳を主張する者を認めるわけにはいかず蜀と呼んだ。→蜀を倒す理由
おまけ:ヲイヲイ俺たちもう金徳だよ、いつまで火徳なんて言っとるんだい?>蜀
資料1:『晋書』輿服志に、「世祖武皇帝接天人之[貝兄] 開典午之基 受終之礼 皆如唐虞故事 晋氏金行 而服色尚赤 豈有司失其伝歟!」という記述があり、王朝の立場で「晋氏金行」と明言しているので、相生説を採っていることが分かる。(参考:菅原さん訳「晋は金行であったので、服する色は赤を尊んだ、どうして官吏がその伝を失うことがあろうか?」)
疑問1:備考1中の『晋書』輿服志引用部分に「而服色尚赤」とあり、色の割り当てがおかしいようだ(金は白、火は赤)。ちなみに晋書には赤がよく出てくる。これって何故?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
|
|