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はい、ご質問のあった公孫越です。
えーと、この時代はあまり詳しくないので、さらっとわかりやすく語らせていただきます。
西暦190年1月に、洛陽にいる董卓を討つため山東の太守や刺史は挙兵しました。この中に袁紹や曹操、それに袁術がいます。
ちょうど、洛陽の董卓に対して、東方面にいるのが袁紹&曹操、南方面にいるのが袁術といった感じでしょうか。
それで、いろいろ反董卓の軍があったんですが、その中で、補給路の面などで袁術からバックアップをうけていた孫堅が南から攻め上がってました。
董卓のいる洛陽から直線距離で60キロメートル(「中国歴史地図集第二冊」という本に物差しあてて計りました)、離れたところにある陽城に、その孫堅が駐屯していた頃、あることがおこります。
袁紹は周昴を豫州刺史にして、孫堅の領地を奪い取らせにいかせます。そして、そのころの豫州刺史が孫堅というわけなので、領土争いの意味合いがあるんでしょうね。
(なぜ、袁紹が軍を派遣したのかいまいち把握してないんですけど、ことの発端は袁紹による劉虞の皇帝擁立問題でしたっけ?)
そこで、袁術は孫堅、それにそのころ客将として袁術のもとにいた公孫越を派遣し、周昴を攻撃させます。
この公孫越というのが何を隠そう、公孫[王賛]の従弟です。
なんで、袁術のところにいるかというと、それ以前に公孫[王賛]は袁術とよしみを結ぶために、騎馬千騎を率いる公孫越を派遣してました。
周昴(袁紹勢力)vs孫堅&公孫越(袁術勢力)
どうなったかというと、戦の最中、流矢により、公孫越が死んでしまいます。
そして、孫堅&公孫越の軍の敗北です。
このことで公孫[王賛]と袁紹の不仲が決定的となり(そりゃ、従弟が殺されたら怒るわ…)、公孫[王賛]vs袁紹がおこり、南の方では、袁術vs劉表がおこるようになります(後者は直接的に関係ないかな…)。また、後者の戦いで、孫堅は流矢により、亡くなりました。
このときの同盟関係は、袁紹&劉表、公孫[王賛]&袁術となります。
(ここらへんのことは三国志魏書の董二袁劉伝や二公孫陶四張伝に書いてます)
というわけで、ここらへんにイフへのヒントが隠されてそうですねー
やっぱり、袁紹と袁術の勢力を長持ちさせようと思ったら、袁紹&公孫[王賛]とか袁術&劉表とかの方がいいのでしょうかね(あまり想像できない組み合わせですが・汗)
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