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曹操の帝位に対する姿勢は時期によって変化していると見るべきだと思いますね。
少なくとも曹操が献帝を迎え入れた時点では、自身が皇帝になるという野望は抱いていなかったと考えるのが妥当でしょう。
当時の曹操は呂布や袁術との戦いに追われ、さらに強大な袁紹が北にいる状況でしたので、将来、中原を制することができる可能性はかなり低かったと言えます。
そんな中で曹操が将来、自分が皇帝になるために、献帝を迎え入れたと考えるのは色々と無理があります。
そもそも、曹操が最初から劉氏に替わって皇帝になることを狙っていたのなら、漢の存続を望む荀イクが腹心になるわけないですしね。
むしろ、今の自分では天下を取ることなどできないという客観的な判断(一種の諦め)があったからこそ、何の力もない献帝を奉じ、臣従することと引き替えに、護漢の英雄という名声と正当性を手に入れる方針を取れたのだと考えます。
反対に、晩年の曹操は露骨に帝位を伺っています。
確かに献帝から帝位を簒奪したのは息子の曹丕ですが、曹操の死後1年も立たないうちに禅譲を行えたというのは、曹操が死ぬ前から準備をおこなっていたからですよ。
そもそも、後漢では劉氏以外は王になっていなかったはずで、にも関わらず曹操が王位についたというのは、その先の帝位を視野にいれてのことです。
曹操の魏公・魏王即位において賛成・反対で大いに紛糾したのは、その先に曹操が今後も漢の臣下に留まるか、漢に取って代わるかという大問題があったからですし、その争いの中で荀イクを始めとした漢存続派が死に追いやられたりもしているわけです。
もっとも、曹操にとって帝位問題は、単純に野心がある・なしで決まるほど単純なものではなかったと思いますよ。
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