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▼清岡美津夫さん:
>ざっと見たところ、夏侯淵が殺される記載は三国志魏書武帝紀、三国志魏書夏侯淵伝、三国志魏書張[合β]伝、三国志蜀書先主伝、三国志蜀書黄忠伝の五カ所にありました。以下に抜粋しておきます。一応、素人丸出しで申し訳ないですが、私の訳もつけておきました。(以下略)
もう一ヶ所、蜀志『法正伝』にありますね。ここには、夏侯淵の首を取ったことが明記してあります。
二十四年、先主自陽平南渡ベン水、縁山稍前、於定軍・興勢作営。淵將兵来争其地。正曰「可撃矣」。先主命黄忠乗高鼓譟攻之、大破淵軍。淵等授首。
(建安)二十四年、先主は陽平より南へベン水を渡り、山の縁を少しずつ前進して、定軍・興勢に陣を敷いた。夏侯淵の将兵が来て、その地を争った。法正は「攻撃すべきである」と言った。先主は、黄忠に命じて高い所へ上がらせ、鼓を鳴らし喚声をあげさせて、これを攻め、大いに夏侯淵の軍を破った。夏侯淵らは首を取られた。
それから、夏侯淵を討ち取ったことについて、魏志『張[合β]伝』の注に興味をひく記事があるので、これも書いておきます。
魏略曰、淵雖為都督。劉備憚[合β]而易淵。及殺淵、備曰、當得其魁、用此何為邪。
魏略は言う。
夏侯淵は都督であるといっても、劉備は張[合β]を恐れ、夏侯淵を組し易いと見ていた。夏侯淵を殺してから、劉備は「一番の大物を得るチャンスだったのに、こんなことではしょうがないではないか」と言った。
この「當得其魁、用此何為邪」は訳しにくいですね。読み下しなら「當に其の魁を得べし。此を用(以)って何と為さんや」でしょうが・・・ まあ、適当に訳しました。
委面如墨
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