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【2489】素朴な質問 ペテン師 2006/9/5(火) 0:46

【2928】Re:三年之喪 池田雅典 2007/10/16(火) 18:33

【2928】Re:三年之喪
 池田雅典  - 2007/10/16(火) 18:33 -

引用なし
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   ▼如墨委面さん:
さらに話ずらしますけど、三年喪には25ヶ月説と27ヶ月説の二つがあり、時代によって正統とされる解釈は異なります。

『春秋公羊伝』に「三年の喪、実は二十五月なるを以てなり」とありまして、漢は公羊伝の規制力が強い時代ですので、公羊が浸透し始める前漢武帝あたりからは基本的に25ヶ月説であったかと思われます。後漢でも、『白虎通』喪服編でやはり三年喪を25ヶ月と規定しています。

 一方、三年喪というのは『儀禮』士虞禮に具体例があるんですが、そこには「期而小祥〜又期而大祥〜中月而(示+覃)」とあり、死んでから1年後(数え13ヶ月目)に小祥、2年後(25ヶ月目)に大祥の禮があり、大祥が済んだら服喪は終わりと考えられていたんですけども、鄭玄に至ってこのあとの文章を
「月を中(へだ)てて(示+覃)す」
と読み、公羊やら禮記やらが言うように25ヶ月で服喪は終わりだけども、喪服を脱ぐのは月をはさんで27ヶ月目の(示+覃)の禮を行ってから、という新解釈を出しまして、これから27ヶ月説が生まれます。
金文京先生がおっしゃたというのはこのことですね。
 鄭玄の禮解釈は多くの経学者に受け入れられたので、鄭玄以降は27ヶ月説が主流になります。逆に言うと、それまでは25ヶ月説がデフォなんです。後漢末だとこの25ヶ月説と27ヶ月説が入り乱れてる時期なので、その人の所属が鄭玄学派なのかそうでないのかにより、服喪期間も違うのでしょう。袁紹は鄭玄やその親友の盧植を抱え込んでますので、鄭玄学派なのかもしれません。

 実際、やはり旧来の25ヶ月説が正しいと主張したのが荊州学派の王粛でして、
「月に中(あた)りて(示+覃)す」
と読めば、大祥を行うのと同じ月に当たって(示+覃)を行い服を脱ぐんだから問題無い、と鄭玄説に反論しています。王粛の娘は司馬昭に嫁いで司馬炎生んでたりすることもあって、晋では王粛説を採って三年喪は25ヶ月です。

 なお、魏がどっちなのかちと調べが足りずよくわからないんですが、後世結局は鄭玄説が優勢になりまして、唐では27ヶ月です。顔師古が三年喪を27ヶ月というのもこのためですが、鄭玄以前の時代を記述する『漢書』に27ヶ月と注すのは明らかに誤りだったりします。

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