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清岡美津夫さん、左平(仮名)さん、ご教授ありがとうございました!
70歳が引退・定年だとすると、現代と通じそうな気がして興味深いですね。他の人物の年齢と比較すれば何か新発見があるかもしれません。人物の年齢を調べるのも楽な作業ではないとは思いますが・・・地道にやっていけたらいいなと思っています。
話は戻りますが最初の書き込みで、自分で「当時の情勢に嫌気がさしてなのであれば特進といった厚遇もないような気がするので」と言っていたのですが、「劉放伝」にある『世語』と『孫資別伝』を見ると、どうもただ単に定年のようなものだけではないのかなと思いました。
劉放と孫資が曹芳の後釜として曹爽を推挙するも、その曹爽の政治に孫資は不満を持っていることが『孫資別伝』では読み取れます。
情勢にも不満を持っていたみたいですね。そうすると孫資がまず退官し、同じく曹爽を推挙していた劉放も責任を感じ退官したのではないかと。
孫資と劉放はよくペアで記述されているので同じ理由で退官したのではないかなと考えます。
また孫資・劉放・衛臻の子らは「三豫」としてまとめて呼ばれていたことを考えると、孫資ら3人が記述はないものの親密な関係であったのではないかと想起されます。
そうすると衛臻も合わせその3人は、意を同じくして退官したのかもしれません。
さらに曹爽が弟のために嫁を求めたことに対して拒否しているのに、「衛臻伝」の注を見ると、衛臻の子が司馬懿の子である司馬亮の妻になっていることが確認でき、衛氏と司馬氏が血縁関係であったことがわかります。
この女子が同一人物とは思いませんが、少なからず衛臻が司馬氏派であったことは間違いないようです。
孫資らが退官した次年に司馬懿がクーデターを起こしている点、何か伏線があるような気がします・・・。
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