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【1628】洛陽の地図について(銅駝街など) 青青生 2005/4/3(日) 2:52 教えて

【1633】中国の城郭都市 清岡美津夫 2005/4/3(日) 14:23 ひと言
┗ 【1634】Re:中国の城郭都市 むじん 2005/4/3(日) 19:01

【1633】中国の城郭都市
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2005/4/3(日) 14:23 -

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   http://www.fukkan.com/vote.php3?no=4962
↑お持ちになっているかもしれませんが、事実上、絶版らしい「中国の城郭都市」によると、本文中には銅駝街のことは書いてなさそうですが、
83ページの「図32 漢魏洛陽城址」には銅駝街が書かれてますね。宮城と宣陽門をつなぐ道に「銅駝街」と書かれてます。
86ページの「図33 北魏洛陽城」にも書かれてますね。
…とあまりヒントになりませんが。

【1634】Re:中国の城郭都市
 むじん E-MAILWEB  - 2005/4/3(日) 19:01 -

引用なし
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   こんにちは。
ネット上に転がっている電子テキストを検索してみました。

すると楊守敬『水経注疏』に「渠水はまた枝分かれして道を挟んで南流し、太尉・司徒両坊の間を抜ける。これを銅駝街という」とあり、その疏に引く『続漢書(後漢書)・百官志』の注に引く伏侯の『古今注』に「永平十五年に太尉・司徒・司空府を開陽城の門内に建てた」とありますから、街(十字路)そのものは永平十五年(AD72年)の時点ですでにあったわけです。『水経注』では続けて「かつて魏の明帝が駱駝やさまざまな動物の銅像を昌闔門の南の街に設置したが、陸機は(『洛陽記』の中で)駱駝の高さ九尺、太尉坊に背にして出ており、川(渠水)の西岸に永寧寺があると言っている」とあります。

銅駝街の名が付けられたのはこの駱駝像が設置された後のことだと思いますが、『太平御覧・州郡部』に引く陸機『洛陽記』には「洛陽に銅駝街あり。漢朝が二体の駱駝の銅像を鋳造したもので、宮殿の西南の四つ辻で道を挟んで向かい合っている」とあり、同じく『太平御覧・居処部』に引く華氏(華延雋)『洛陽記』にも「二体の駱駝の銅像が宮殿の南の街にあり、東西で向かい合っている。高さは九尺、漢の時代には銅駝街と呼ばれていた」とあり、これは『初学記』にも引かれていますが、漢代から駱駝像があったような記述になっています。「魏の明帝」は後漢明帝(永平含む)の間違いなのかも知れないなぁという気もします。

『洛陽伽藍記・城内』には「永寧寺は宮殿前の昌闔門を南に一里行った御道の西側にある。その寺の東隣は太尉府、道を挟んで西側では永康里と向かい合い、南は昭玄曹、北は御史台と接している。昌闔門前の御道の東側には左衛府があり、その南に司徒府があり、その南に孔子像のある国子学堂があり、その南に宗正寺があり、その南に太廟があり、その南に護軍府があり、その南に衣冠里がある。御道の西側には右衛府があり、その南に太尉府があり、その南に将作曹があり、その南に九級府があり、その南に太社があり、その南に凌陰里がある」と記されています。

このほか「銅駝街」という語句は『冊府元亀』『初学記』『太平御覧』などに見えているようです。
地図については、たぶん『洛陽伽藍記』(そう高い本ではないです)の良い本なら付いているのではないかと思います。

『水経注疏』http://htsg.ad184.com/UploadFiles/sjzs/sjzs16.htm
『洛陽伽藍記』http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3
『冊府元亀』
『初学記』http://htsg.ad184.com/Article_Show.asp?ArticleID=2261
『太平御覧』
『後漢書』http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3

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