|
二度目になりますが多少知る所なので投稿いたしました。
袁紹が生まれた年は石井氏や上記の人が言うように曹操よりも年上だろうと思われます。東北大の大学院生の人が,袁氏の論文を書かれています。そこでも石井氏や上記の方の根拠の他,いくつか史料をあげて,やはり本初元年が生まれと論じていました。どうも146年生まれというのは,妥当なようです。
喪については,足掛け三年のため,今日でいうところの六年とは異なりますから,丸々六年ではありませんが,その後も官途には就いていないようです。
また先に書き込まれた方で大將軍の事に関する史料の読み方についての疑問がありましたが,その史料は確実に大將軍の辟召であり,184年乃至185年頃の応辟と考えられます。これは制度的な側面から断定できることです。
なお20年近く官に就かなかったことになりますが,この頃の常識では別に珍しいことではありません。理由はそれぞれの家の問題などもあって異なりますが,40,50を超えてから出仕することは当り前の事でした。
倉亭の戦いは「戦い」というほどの事はありません。『魏志』の武帝紀に
六年夏四月,揚兵河上,撃紹倉亭軍,破之。紹帰,復收散卒,攻定諸叛郡県。
とあるだけです。文学が専門ではないので,断言できませんが,意図的に読み間違えれば,これを一つの文として理解して,この倉亭で敗れた後に袁紹が冀州に帰ったと読めます。しかし普通,これは引いた史料で最初に「。」をつけたところが文の切れ目で,前後の話はまったく別です。
古代史の潜在的な問題点ですが,史料が少ないために何とも言えませんが,倉亭は東郡にあるので,袁紹側からすれば,黄河を渡った先の駐屯地になり,曹操が防衛線を黄河にまで引き戻したと考えるのが妥当であろうと思われます。
後漢の研究は狩野直禎,東晋次,渡邉義浩,制度史で冨田健之の四名ほどしか専門的におこなっていませんが,将来の研究者候補では,早稲田や東北,九州大の院生で後漢の研究をしている人がでてきたので,まだ一般に浸透していない部分で活発な研究が行われているようです。
袁紹で言えば,専門のテーマというわけではないのでしょうが東北大の人が相当研究しており,石井氏の弟子に当る人ですから,三國志学会等で石井氏等に質問すれば,一般に浸透していない情報が多く得られるのではないでしょうか。
|
|