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話がずれてしまいそうなんですがコメントを少々。
私も、どうして正史にこだわるのかわからない、って思う方です(汗)
いや、漫画や小説だけでなく、サイトとかコラムとか、いろんな書き手に関して思うことなんですけど。
私が三国志関連の小説やコラムを書くとき、正史類(後漢書、三国志など)だけじゃなく、三国志の裴松之の注や、後漢紀、華陽国志などの史書を見たり、あと設定に関しては簡牘や画像資料を解説した本を参考にしたりするんですけど、そのときの感覚では、正史類の史書だけじゃ何か偏りそうな気がしました。
実際、それぞれの史書で同じ出来事について記しているのに、内容が少し違ったり時と場所が違ったりすることはありますし。
(正史だけが歴史じゃないですね)
…と本題から本当にずれてるので、話、戻します
[#374]
↑以前も書いたように、歴史を基にした作品における虚構(創作)は大きく分けて二種類、あると思います。
私の意見としては、「史書には触れられていない部分での虚構」は大いにやった方が良いと思います。
その方が作品性が高まると思いますし(ここらへんはポコさんの知人さんと同意見かもです)
それに読者の多くは別に史書と作品を比べるためにその作品を読んでいるんじゃなく、作品だけを読んでいるんで(楽しんでいるんで)、作品の独自性(独立性?)を高めた方が良いのかなぁって気がします。
(と書きつつ、乍融さんのおっしゃっている「史上初の快挙」[#1161]にも惹かれるんですが・笑)
それからまた話が少し変わります。
史書(この場合、三国志や裴松之注など)をもとにした創作と、創作(この場合は三国演義など)をもとにした創作は本来、まったく別ものだと思います。
今じゃ(過去もそうかな)、この二つがごっちゃになった創作でも違和感なく受け入れられてますが。
……いや、最近、「正史準拠」をうたった創作を読んで、孫権の妹の名が「仁」だったを見て(参照[#T100])、説得力ないな、と感じたもので(それか私の知らない史料にそう載っているかも)。
別に大したことじゃないんですけど、改めて、史書をもとにした創作と創作をもとにした創作の存在を強く感じました。
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