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いつもおおいに勉強させていただいております。
ふと疑問に思ったのですが、この時代の年齢計算は所謂「かぞえ歳」と呼ばれるものなんですよね?
私もそう思いながら正史を読み進めていたのですが、果たして本当にそうなのだろうかという疑問が生じてしまいました。
孫堅の没年には諸説ありますが、本伝等に見られる『初平2(191)年』説と、翌年の『初平3(192)年』説に大別できるのではないかと自分では思っております。ちなみに英雄記には初平4(193)年とありますが、これは孫策の活動時期や周辺の動向と照らし合わせてもおかしいと思えますので、とりあえず却下という判断を取らせていただきました。
それがどうして年齢の計算方法に対する疑問に転じたかと申しますと、討逆(孫策)伝の方に孫堅の没年が本伝の記述は誤りであると指摘してあったからです。裴松之によると、呉録には孫策が詔書に返して記した上表文が記録されており、その中に「臣は年十七にして怙むべき父親を失いました(臣年十七、喪失所怙)」とされていることから、本伝で孫堅が初平3(192)年に死んだとされること、孫策が建安5(200)年に26歳で死亡したことと照らした上で、孫堅の没年は初平2(191)年であると結論付けています。裴松之の考え方はまったくもって正しく、私もおおいに納得したのですが、いざ孫堅の方の足跡をまとめているとやはり没年に対する確信を掴みかね、そこで注目したのが上表文の中にある孫策の言葉です。この言葉は、孫策が確固たる認識として「自分は17歳のときに父親を亡くした」という考えを持っていないと導きだしにくい言葉だと思うのです。それでは孫策が自分を17歳であるとはっきり認識するときとは、いったいどういうタイミングなのだろうと思い、それで冒頭の疑問が生じたという訳です。
175年生まれであるという孫策は、かぞえ歳の考え方でいくと産まれたその時点で「1歳」となり、(私たちの祖父母の代までが使用していたかぞえ歳の考え方で行くと)年が開けた翌176年正月にはもう「2歳」という数え方になりますよね。そうやって計算していくと、孫策が自分は17歳だと認識するのは191年の正月だということになります。この考え方は、裴松之が導き出した孫堅の没年に合致するものと言えると思います。
では次に、仮に当時の年齢計算方法に「かぞえ歳」が使われていなかったとすると、私たちが現在使用しているような「誕生日を迎えてはじめて加齢する」というものが考えられます。さすがに孫策の誕生日(月)までは想像の域を出ませんから不明であるとしても、そうすると裴松之が導き出した孫堅の没年が崩れてくるという結果を招くのではないかと思いました。
長々となりましたが、つまるところ当時の年齢計算方法が「かぞえ歳」であるのかどうか。またそれがそうならば、どのような書物にそのことが記されているのか。それに対する答えを教えていただければ幸いです。いくらか自分で調べてもみましたが、なかなか確固たる証拠を見つけられなかったために、こちらの皆様からお力添えをいただこうと思い質問させていただきました。
どうぞよろしくお願いいたします。
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