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【1038】年齢について ケイコ 2004/6/14(月) 9:41 教えて
┣ 【1039】数え年の一例 清岡美津夫 2004/6/14(月) 12:44
┃┣ 【1041】Re:数え年の一例 MM2 2004/6/14(月) 21:56
┃┗ 【1043】ありがとうございました ケイコ 2004/6/15(火) 0:57 感謝♪
┗ 【1042】訂正 ケイコ 2004/6/15(火) 0:07

【1038】年齢について
教えて  ケイコ  - 2004/6/14(月) 9:41 -

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   いつもおおいに勉強させていただいております。

ふと疑問に思ったのですが、この時代の年齢計算は所謂「かぞえ歳」と呼ばれるものなんですよね?
私もそう思いながら正史を読み進めていたのですが、果たして本当にそうなのだろうかという疑問が生じてしまいました。

孫堅の没年には諸説ありますが、本伝等に見られる『初平2(191)年』説と、翌年の『初平3(192)年』説に大別できるのではないかと自分では思っております。ちなみに英雄記には初平4(193)年とありますが、これは孫策の活動時期や周辺の動向と照らし合わせてもおかしいと思えますので、とりあえず却下という判断を取らせていただきました。

それがどうして年齢の計算方法に対する疑問に転じたかと申しますと、討逆(孫策)伝の方に孫堅の没年が本伝の記述は誤りであると指摘してあったからです。裴松之によると、呉録には孫策が詔書に返して記した上表文が記録されており、その中に「臣は年十七にして怙むべき父親を失いました(臣年十七、喪失所怙)」とされていることから、本伝で孫堅が初平3(192)年に死んだとされること、孫策が建安5(200)年に26歳で死亡したことと照らした上で、孫堅の没年は初平2(191)年であると結論付けています。裴松之の考え方はまったくもって正しく、私もおおいに納得したのですが、いざ孫堅の方の足跡をまとめているとやはり没年に対する確信を掴みかね、そこで注目したのが上表文の中にある孫策の言葉です。この言葉は、孫策が確固たる認識として「自分は17歳のときに父親を亡くした」という考えを持っていないと導きだしにくい言葉だと思うのです。それでは孫策が自分を17歳であるとはっきり認識するときとは、いったいどういうタイミングなのだろうと思い、それで冒頭の疑問が生じたという訳です。

175年生まれであるという孫策は、かぞえ歳の考え方でいくと産まれたその時点で「1歳」となり、(私たちの祖父母の代までが使用していたかぞえ歳の考え方で行くと)年が開けた翌176年正月にはもう「2歳」という数え方になりますよね。そうやって計算していくと、孫策が自分は17歳だと認識するのは191年の正月だということになります。この考え方は、裴松之が導き出した孫堅の没年に合致するものと言えると思います。
では次に、仮に当時の年齢計算方法に「かぞえ歳」が使われていなかったとすると、私たちが現在使用しているような「誕生日を迎えてはじめて加齢する」というものが考えられます。さすがに孫策の誕生日(月)までは想像の域を出ませんから不明であるとしても、そうすると裴松之が導き出した孫堅の没年が崩れてくるという結果を招くのではないかと思いました。

長々となりましたが、つまるところ当時の年齢計算方法が「かぞえ歳」であるのかどうか。またそれがそうならば、どのような書物にそのことが記されているのか。それに対する答えを教えていただければ幸いです。いくらか自分で調べてもみましたが、なかなか確固たる証拠を見つけられなかったために、こちらの皆様からお力添えをいただこうと思い質問させていただきました。

どうぞよろしくお願いいたします。
<sage>

【1039】数え年の一例
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2004/6/14(月) 12:44 -

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   どうも、こんにちわ。

私がぱっと思いつく数え年の一例は、後漢の殤帝の例ですかね。
ただ、時代が百年ほど、さかのぼります。
(以前、別件[#653]で調べていたのをたまたま覚えていただけなんですが)

後漢書の本紀にみえる、

元興元年(西暦105年)十二月辛未夜、即皇帝位、時誕育百餘日。

(テキトー訳)元興元年の十二月辛未の日の夜、誕生してから(「誕育」の訳はこれでいいのかな)百日あまりの時に皇帝の位についた。



(延平元年、西暦106年)八月辛亥、帝崩。癸丑、殯于崇コ前殿。年二歳。

(テキトー訳)八月の辛亥の日に、皇帝が崩御した。癸丑の日、崇コ前殿において殯した。年は二歳だった。

って記述です。
十二月に生まれてから百餘日だと生まれたのが去年ってことはないので、生まれた年を一歳と数えてそうですね。


その他の例は思いつかないです。

【1041】Re:数え年の一例
 MM2  - 2004/6/14(月) 21:56 -

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   こんにちは。

>「誕育」の訳はこれでいいのかな
スレッドの本文とは関係ありませんが、「誕育」は「養い育てる」の意だそうです。
では、失礼しました。

【1042】訂正
 ケイコ  - 2004/6/15(火) 0:07 -

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   己で突っ込むのも恥ずかしいことなのですが…
孫堅没年諸説のくだりで

本伝→初平3(192)年

が正しかったですね。すみません、大変失礼致しました。
<sage>

【1043】ありがとうございました
感謝♪  ケイコ  - 2004/6/15(火) 0:57 -

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   ▼清岡美津夫さん

お答えご丁寧にありがとうございました。
気になる誕生日の方は自分でも引き続き探してみたいと思います。

周瑜伝の方に呉夫人が「(周瑜は孫策と)同い年で1ヶ月遅く生まれた(公瑾与伯符同年、小一月耳)」と言っている一文を見て、そのように個人の生まれた月というのが当時認識されていたのかなと考えたのですが、こちらも確信には至れないという次第です。引用が江表伝と微妙なこともありまして(そういう偏見はよくないかもしれませんが)。

殤帝の例の他にお気付きになられたことがございましたら、またご教授よろしくお願いいたします。
<sage>

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