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どうも。今回は質問に参りました。
『後漢書』光武皇紀に
>世祖光武皇帝諱秀,字文叔,南陽蔡陽人,高祖九世之孫也,出自景帝生長沙定王發.
とありまして、その後長沙定王發から光武帝までの家系が述べられています。
高祖から光武帝までをまとめると以下のようになります。
高祖─文帝─景帝─長沙王発─買─外─回─欽─光武帝
上記文に“高祖九世之孫”とありまして、現代日本人の感覚だと「九代前・九代後」とかいう言葉が頭に浮かんでしまい
軸になる人物(この場合高祖)を抜かして考えてしまうのですが、
系図を見てみると以下のように高祖を含めて“九世孫”としていると考えられます。
@高祖─A文帝─B景帝─C長沙王発─D買─E外─F回─G欽─H光武帝
続きまして、同じく『後漢書』何敞伝を見ると以下のような文があります。
>何敞字文高,扶風平陵人也.其先家于汝陰.六世祖比干,學尚書於朝錯,武帝時為廷尉正,與張湯同時.
同じ何敞伝の後に何敞の上奏文があり、その中で“臣伏惟累祖蒙恩,至臣八世”という箇所がありまして、
その部分の注では以下のような家系が述べられています。
>何脩生成,為漢膠東相;成生果,為太中大夫;果生比干,為丹陽都尉;比干生壽,蜀郡太守;
>壽生顯,京輔都尉;顯生鄢,光祿大夫;鄢生寵,濟南都尉;寵生敞:八世也.
脩─成─果─比干─壽─顯─鄢─寵─敞
しかしこの場合だと、“六世祖比干”は合っているのですが、何敞から何脩までを数えると“九世祖”となってしまい、
前の2例の数え方とは違ってきます。
これ、どうも前の2例とは違う数え方をしているとしか考えられないのですが、
このあたりの文章的な言い回しについて詳しい方がいましたらご教授お願いします。
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