|
皆様、はじめまして、天神と申します。皆様よろしくお願いします。
知識は皆様に到底及びませんが、暖かい目で見守ってやって下さい。
>ハン城の戦いがあったときケイシュウを守っていたのは関羽です。あのとき諸葛亮は関羽一人でケイシュウを守れると関羽の能力を過信していたのでしょうか?もし無理無理と考えていたならなぜ黄忠や馬超といった将を守りに就かせなかったのか教えて下さい。宜しくお願いします。
これについてですが、一般的に五虎大将軍(蜀書の「関張馬黄趙伝」の人達)と言われる将が関羽と共に行動する事が出来たか、私個人の考えを言わせて頂けるなら・・・。
張飛:劉備の蜀取り後、益州に留まる。厳顔を降らせ、張コウを破るなど強い強い、しかし戦略眼においては関羽に劣るのでは?性格は粗暴ですし。
趙雲:劉備の蜀取り後、益州に留まる。五将の中では戦略的な利害を最も解している、と思われます。夷陵の際体を張って諌めた位であり、呉と争う事の愚を知っていた。北伐の撤退時も迅速な行動をとったし推すならこの人?しかし役割としてはこの頃魏の許チョや呉の周泰の位置に留まる彼を荊州を行かせることが出来たか?
馬超:劉備の益州侵攻の際に仕官。彼については将来していたであろう涼州侵攻の際に必要とされていたはず。(しかし病死)
黄忠:関羽に「老兵」呼ばわりされており、関羽は彼をぞんざいに扱うのでは?
また関羽の孤立は諸葛亮の想定外の出来事だと思います。劉備は益州侵攻の際ホウ統を失ってしまい、荊州から諸葛亮・張飛・趙雲を呼び寄せます。
諸葛亮は政務に追われ(劉備は人望こそあったものの為政者としての実績はそれ程ないですし)荊州に戻ること叶わず。他二将は戦争・護衛に期待されていた為か戻れませんでした。
以上まとまっていない拙文でしたが、どなたか正答をお願い致します。(無責任な)
|
|