翻旗   後半
介子嘉さん著
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   周家がにわかに慌しくなった。
   仕官先から兄が帰省するという。
   そうして同じ頃には孫家が南邸に来るという。
   一少爺がお帰りですという家人の声に周瑜は慌てて読んでいた書を置いて迎えに出る。
「私がいなかった間、何も起きなかったかい?」
   問いかけられて周瑜は兄に「何もなかった」と返事をする。
「おまえがすぐに家を飛び出してしまうと言って老陳が嘆いていたよ」
   そう言われて首をすくめた周瑜を兄が軽く冗談で叩く。
「そうだ、兄上聞いて、孫将軍と話しをした」
   弟の言葉に兄が不思議そうな顔をした。はじめて聞く話だ。
「そうか、孫将軍を見たくて家を飛び出したんだな、私の弟は。それでどうだった?」
   部屋までの回廊をふたりで歩く。その後ろを家人が兄の荷物を運んでいる。
   中庭の牡丹が咲き始めている。小さな中庭だが、これが兄の部屋の前にある光景だ。
「うん、叔父上は袁家に仕官の見習いを手配をしてくれると言うけれど、旧家の袁家よりも孫家のほうが面白そう」
   弟の返事に兄は笑った。
「なるほど、確かに袁家は落ち目だ」
   人前では言えないようなことを兄弟はふたりで言いたい放題に言う。
「また義勇軍を出すというから、疎開地でうちの南邸を使ったらと言ってみた」
   兄が笑顔で頷くのを見て、はっきり言って周瑜はほっとした。
   これで「勝手にそんなことを言ったのか」とでも言われたら困ったところだ。
「それで、使うと言っていた?」
「ちょうどよかったと言ってくれた。家族の疎開地を探していたのだって」
   ならばよかったと兄もにこやかに嘆息した。
「孫将軍といえば仕官先でも有名だよ。とても勇猛な将軍だそうだね」
   周瑜の目がぱっと輝く。
「そう、すごくカッコよかった!それにとてもはっきりと喋るんだ。僕も従軍したいと思ったのだけれど、でもダメでしょ?」
   弟のこの質問には兄がはっきりと「ダメだ」と答えた。
   周瑜の肩がありありと落胆を見せる。
「孫将軍の息子が自分と同じ歳なのだと信に書いてきたじゃないか。孫将軍の息子は従軍すると言っていた?」
   兄の質問に周瑜は「従軍しない」と答える。
「十六、七の少年が従軍するには兄上も賛同しない。いくら袁家よりも孫家がよいと言ってもまだ従軍はできないよ」
   周瑜は唇をかむ。
   ため息をつく弟を眺めてから兄は、二十歳を過ぎた頃になら叔父上に話してごらんと言って周瑜の頭をなでた。
「阿瑜は兄上がいない間、よく家を守ってくれているから頼りにしているんだ。おまえが従軍してしまったらこの家を誰が守るんだ?」
   家人の運んできた自分の荷物と書を片付けながら兄が言う。兄の牀の上に座り込んで周瑜はむうと唸ってしまった。
   確かに兄が仕官先に行ってしまって、自分が従軍してしまったら母ひとりにこの邸を管理させることになる。もちろん管家の老陳はいるが、老陳も使用人だから母の頭越しに仕事をすることはできない。
「さあさ、兄上は長旅で疲れたぞ。母上のところに挨拶をして、それから南邸を見に行かなくては。孫将軍に使ってもらうのに粗相があっては周家の名が廃る。落ちぶれても矜持まで捨てて貧乏人になるわけにもいかないのだからね。牀を降りて、兄上と一緒に南邸の手入れを考えてくれよ」
   牀から転がされて周瑜は兄にくっついて母の所へゆく。
   回廊を巡って母の部屋の扉を開ける。
「母上、兄上が帰ってきた」
   周瑜の声に母が振り返る。
   一通り話しを終えると、兄はさっさと南邸へと足を運ぶ。
「袁家も義勇軍を立てている、それから曹家も旗を挙げると聞くよ。そこに孫家だ。都の暴政も長くは続かないだろう。孫将軍には安心して戦ってもらわなければ」
   本家は義勇軍に参加しないのだろうかと周瑜はふいに考えた。
「周家は?」
   弟に聞かれて兄は嘆息する。
「本家の叔父上たちを見てみろ、そんな覇気があれば董卓なんぞにいくらか取り入ったりしてどうにか陛下のそばに居座るだろうが。じゃなければ反抗して殺されているかだな」
   周家の中にも周忠のようにしぶといのがいるのだが、それも文官だと兄は言う。
   盧江周家は武官向きではないのだと兄は続けた。
「もっともおまえは違うようだけれども、一体誰に似たのだか」
   冗談を言う兄に周瑜は笑った。
「二十歳になったら叔父上に相談してもいいとさっき兄上言ったでしょう?」
「二十歳になったらとは言わなかった。二十歳を過ぎた頃にと言ったんだ」
「同じだよ、叔父上に相談して叔父上がいいと言ったらいい?」
「叔父上が許したらいいけど、今は兄上が許さないからダメ」
   兄弟の会話が奇妙に弾んだ。
「バカ兄上」
   周瑜の頭に兄がひとつゲンコツを落とした。
   ふいに会話が止まった。
   南邸の庭に夕陽にかかった赤い日が差している。
「孫将軍によろしく伝えておきなさい。二十歳を過ぎたら兵を率いるのもいい。周家の名を辱めるようなことだけはするな」
   名を辱めるようなことというのが何か、ふたりにも具体的になどわからない。
「わかってる」
   それからしばらく、ふたりはあれこれと家人に南邸の手入れをさせた。



   孫家の軍が出立するという一報が周瑜にも届いた。
   孫将軍に期待してもよいだろうかと言った兄の言葉が胸中を去来する。
   大空に、孫と書かれた旗が高々と掲げられた。
   それは太陽に翻った。
   群集の期待の上に旗は大きく映え、それぞれの思いを飲み込む。
   長男としての孫策の責任感、少年としての周瑜の憧憬、周瑜の兄の憂国を打ち消す期待も民衆の漠然とした不安も旗が飲み込んだ。
   それを指揮するのはひとりの男だ。
   男は後に東呉の武烈皇帝と称される。
   時に初平元年、各地で董卓討伐の義勇軍が挙兵した年であった。





   
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