翻旗   前半
介子嘉さん著
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   それは憧れ。
   物心付いた頃には父は洛陽へ赴いていていなかった。
   父という存在への憧れは大きかった。
   だが目の前で演説をしている男は存在自体が大きかった。
   同じ演説を聴いている少年が横にいる。
   彼の目はありありと、父への憧憬と思慕を抱いていることを教える。
   演説をしている男は、自分の隣で演説を聴いている少年の父だから。父のように人をひきつける存在に憧れ、自分もそうあろうと思うのだろう。
   自分は器用ではないから男への憧憬を露にはしない。
   感情が他人に知られるようにできるほど器用ではない。
   民衆に向かって口角泡を飛ばすと言う表現がしっくりと来るほどに熱っぽく演説をする男を見つめて少年が―周瑜が思うことはただ一つ。
   自分の父もあのように大きな存在であったのだろうかと。
   憂国の英雄
   ふいに脳裏をよぎった言葉だ。
   演説が長く続くにつれて背筋に鳥肌が立つような感覚に襲われた。



   親父のようになる
   隣で演説を聴いていた友人の名を孫策という。
   一軍を率いて天子さまに報いるのだ
   そう孫策は言う。
「君はよい将軍になれるだろうね」
   周瑜が言うと孫策は「そうなりたいけど」と首をすくめる。
   さて自分はというと叔父の示す道を辿るのだろうかと疑問がめぐる。事実、兄はそうしてきた。
   一番無難にも思えるが、国が滅びそうなときに大丈夫なのだろうかという思いもある。
   少年が駆け込んできて孫策に飛びつく。
「長兄長兄、父上を見てきた?カッコよかった?」
   まだ幼そうに見える少年は、周瑜を見て一瞬きょとんとして、それから小首をかしげて孫策を見上げている。周瑜も疑問符を頭にくっつけたままで孫策をまじまじと見つめてしまった。
   孫策が朗らかに言う。
「これ弟。ほら兄上の友達だ、挨拶は?」
   にこりと笑ってノンハオと言うその弟に、周瑜は一瞬たじろいだ。
   それから気を取り直してニィハオと返事をする。
   こういった「いくらか小さい飛び跳ねる生き物」は少なくとも周家にはいない。自分よりも小さな兄弟のいない周瑜には馴染みのないものだ。
「お兄ちゃんも戦に行く?」
   彼らの父親の演説を聴いたときのように、周瑜の胸が高鳴った。
   いつか自分もあのようになりたい
   それは言うことのできない理想だ。
   兄に飛びついた小さなものに向かって首を振り、周瑜は孫策に目を戻した。
「君は戦に行くのか?」
   周瑜の質問に孫策は首を振った。
「僕は行かない。父がまだ戦場には出してくれないし、それに弟たちがまだ小さいから放って行くわけにはいかない」
   はあと周瑜は曖昧に頷いた。
   確かにこの小さなものを放っておくわけにはいかないことはわかる。それに加えて「弟たち」と言うことは、この弟のほかにもまだ小さいものがいるのだ。
「君が長男?」
   周瑜に聞かれて孫策は頷いた。
   友達と話しをしているから少し母上のところで遊んできたらと言う孫策に、弟は素直に従って戻っていった。
「僕が長男であれが次男。権という名前だ。その下にまだ小さいのがいる」
   笑う孫策に、周瑜は開いた口がふさがらなかった。
   あれが二番目。
「ずいぶんと年が離れているように見えるけれど」
   言う周瑜に向かって孫策は軽く頷いた。
「僕だけがいくらか年上で、あとはみんな小さい。あの弟も七つぐらい年下だよ」
   吐息してから頷く周瑜の様子に孫策は笑った。
「君は末っ子か」
   孫策に聞かれて周瑜は頷いた。
   次男だと言う周瑜に孫策は「そうか」と言って頷く。
   ただし周瑜と兄は、あまり一緒に転げまわって遊んだと言うような記憶はない。周瑜が物心付いた頃、兄はすでに学問をきちんと塾で習い始める歳で在宅していることが少なかったこともあるし、周瑜が病がちで寝かされっぱなしだったせいもある。
「父が戦に行っている間は僕が家族を守らなくてはならないと言われるから、戦に出してくれなくても諦めがつく」
   だがいつか父のような将軍になるのだと孫策は自負しているのだろう。
   父が何かで倒れてしまったら、家族を守るのと同じように孫家の軍を自分が守らなければならないことも自負しているのだと、孫策の表情を掠めた厳しい雰囲気が周瑜に悟らせる。
   がたんと扉が開いて男が幾人か顔を覗かせた。
   目を丸くしているのは先ほど演説をしていた男、孫策の父だ。
   慌てて席を立ち上がる周瑜をとどめ、孫策の父が孫策に目をやる。
   椅子の脚に着物を絡げ取られたものの、立ち上がって周瑜は拱手した。
「友達か?」
   父の質問に孫策が頷く。
「息子がお世話になっているようだね。ゆっくりしていったらいい」
   間近で一見した英雄に、周瑜は首を振った。
「阿策、あまり粗相をするんじゃないぞ」
   冗談のように孫策に向かって顔をしかめて見せ、孫策の父は扉を閉めてしまった。
   公衆の面前で大演説をぶった同じ人間には見えない。
   きょとんとする周瑜に、孫策が首をすくめた。
「本当のところはああいう父なんだけれども、戦になると顔が変わる」
   孫策の自慢の父なのだろうと周瑜は顔をほころばせた。
   自慢の父が戦に行くのは、誇りでもあるし危惧もあるだろう。
「山東の義勇軍が挙兵したんだ」
   孫策が続ける。
   ああと周瑜が頷いた。
   都の暴政は周瑜も聞いている。
   従兄弟や親戚から聞く都の暴政はすさまじい。皇帝すら殺され、反抗した者は容赦なく切り刻まれるとまで聞いている。
   たまりかねた義勇軍が挙兵したのだ。
「孫家の軍は義勇軍に合流するのか」
   孫策が自分の手をじっと見つめている。
   孫家はそれだけの覇気を持っている。
   悔しいが、今の周家にはそれだけの覇気はない。
   ただできることはないだろうかと考えてみて、周瑜は「そうだ」とつぶやいた。
   そのままいくらかふたりとも黙りこくってしまったが「もしよければ」と口を開いたのは周瑜だった。
「もし君さえよければ、家族と舒に来たらどうだろう」
   孫策の目が周瑜を眺める。
「孫家の軍が出払うのだろ?だけれども、舒に来れば僕のところの部曲がそのままに使えるから安心できるのじゃないだろうか」
   ああと孫策が曖昧に頷く。
   少なくとも家族を守ることのできる軍が近くにあれば、孫将軍も不安を少ないままで戦に行くことができるのではないだろうかと周瑜は続けた。
   しばらく考え込んでいた孫策が、やにわに立ち上がって部屋を出る。
「ここにいてくれ」
   言って扉を閉めると、孫策の足音が遠ざかった。
   一か八か、この提案が吉と出るか凶と出るか。
   まあ、いきなり引っ越してこいまがいのことを言われてそうですねと引っ越してくることもできないだろうし、怒鳴られることはないだろうが苦笑して子供の提案だと蹴られるのが落ちではないかという危惧が周瑜にはある。
   しばらくして扉を開けた孫策が喜色満面でいるのを見て、周瑜は目を丸くした。
   後ろには孫策の父がいる。
「さっき君、舒に来たらどうだと言っただろ。それでなのだけれど、本当に舒にうちの家族で行って問題はないのだろうか」
   孫策の声が弾んでいる。
   「問題ないよ」と周瑜が言うと、孫策は「それならよかった」と頷く。
「聞いた?父上」
   息子の声に父はきょとんとした表情で自分の息子の連れてきた少年を眺めた。
「戦の時に疎開地があるとよいと前々から話しをしていたんだ。そこへ君が舒へ来いと言う。もしそれが冗談じゃなく本当ならいいのだけれど」
   孫策にしつこく聞き返され、周瑜は本当に大丈夫だと繰り返す羽目になった。
   そのふたりを眺めて怪訝な表情をしているのは孫策の父の隣にいる男だ。
「子供が簡単にそのようなことを言うのは戯れでしかできませんでしょうに」
   言われて孫策がふてくされる。
   「大丈夫なのだろ?」
   孫策からまた聞かれ、周瑜は頷く。
「南側の邸はぜんぜん使っていないから、誰かに貸してもよいのじゃないかと母と話しをしていた」
   周瑜の言葉に孫策がほっとしたように吐息した。
   「お父上は反対なさらないのか」と聞いたのは孫策の父だ。
   父は、と少し言いかけて口をつぐみ、それから小さく吐息して「他界しております」と周瑜は答えた。
   ふいに孫策が首をかしげた。
「君は次男だろう?兄上も同意なのか?」
   今度は周瑜はにこりと孫策に向かって笑って見せた。
「兄は仕官していて家にはいないんだ」
   答えた周瑜に、孫策は気まずそうに頭を掻いた。
「もし将軍さえよろしければ周家の邸を使ってください。多分昨年大掃除をしているので埃が何年分もたまっているということはないと思うのですけれど、手入れをしておきますから」
   孫策の父の横にいる男が嘆息する。
   周瑜は少しばかりの緊張に唇を湿らせた。
「ご迷惑ではないかな」
   孫策の父に聞かれて周瑜は「問題ないです」と答え、横から孫策が「さっきから何度もそう言ってるのに」と口を挟んで「少し黙っていなさい」と軽くたしなめられた。
   父親もこうして叱るものなのだと周瑜は首をすくめた。
   自分は父に叱られた記憶などない。
   おなじ家長であっても兄には悪戯をよく叱られたものだが、親戚のどこを見ても父というものは厳然として取り付く島のないものだと考えていた周瑜にとって軽口を叩く孫家の親子は不思議だった。
「それではお言葉に甘えさせてもらってもよいだろうか」
   周瑜の耳を打ったその言葉は一瞬で周瑜の不安を打ち消した。
   「はい」と答えて周瑜は、戻ってすぐに手入れをさせますと続けた。