わかれ目   〇五
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   孫文台の部下や彼が募兵した集団は来たが、彼自体はまだ来ない。
   彼の部下たちが言うに、彼はわずかな供を引き連れ、敵軍のいる潁川郡へ偵察に行ったらしい。

   兵営で文台の部下と面と向かっている。それに傅南容と張子並がいる。計五名。こう改めて思うと、変な組み合わせだ。立ち話とかじゃなく腰を据えて話している。
   この集いは文台の部下たちに現状を知らせること。
   どうやら文台の部下、二人は我が軍が京師(みやこ)を守るための軍だと思い込んでいたらしい。
   少なくともその誤解は解けた。我々は攻めに打って出る軍だ。
   後は地力を蓄えられるのを待つのみ。


   話は出し尽くされ、次第に根の深い問題へと触れるようになっていた。そのせいか、場に出る声もとぎれとぎれになっている。そのいくつめかの沈黙の時、
「どけ!」
   と怒鳴り声が飛び込んできた。ちょうど、私の前。向かい合う文台の部下二名ではない。もっと向こうだ。幔幕のあたりか。いやさらに向こう。幔幕越しからだ。
   その方向は兵営の入り口だ。それに続く野太い悲鳴。その悲鳴はきっと門番から発せられたんだ。
   一体、何が?   まさか兵営に張角の一味が入ってきたわけじゃあるまい。だけど、京師(みやこ)を内と外から乗っ取ろうとしたやつらだ。何があっても不思議じゃない。

   正面の幔幕が勢い良く左右に開く。
   外からの光で、入ってきた男の造形が浮かび上がる。顔は影ではっきり見えない。激しい息づかいがその影から聞こえてくる。
   前に居る文台の部下二人がそちらの方向へ振り返ろうとする。
   いつの間にか牀から立ち上がっていた傅南容がその二人と新参者の間に割り込む。

   南容はすでに鉄刀を抜いている。
「何者だ!   返答によってはこの場で斬り捨てるぞ!」
   南容は入ってきた男を一喝した。あの長身で素早い動きをするだなんて驚きだ。
   この場へ飛び込んできた新参者も運が悪い。門番を倒したからといって、南容を倒せるとは思えない。逆に一刀のもとに崩されるだろう。

   目が慣れてきた。入ってきた男の姿が見える。着ているものは袴褶。だけど、武器は何ら持っていない。間抜けな襲撃者だ、と思い、その顔を目で探る。そうすると、そこには埃と汗でまみれているとはいえ、知っている顔がある。
「文台じゃないか」
と私の口から新参者の名前が出ていた。力強さを感じる眉や目元に顎回り、確かにそうだ。
   それは数年ぶりに再会した、旧友ともいうべき男、孫文台、その人だ。こんな派手な現れ方をするなんて何か理由があるのか?   表情も硬く厳しいことだし。
   南容は依然、鉄刀を構えたままだが、私の一言で文台へ斬りかかるのを防げたようだ。

「文台?   この人が佐軍司馬の孫文台どのですか?」
   南容は力のぬけた声をあげた。無理もない。その顔を確かめるまで、私でさえ張角の一味と勘違いしていたぐらいだ。
   文台の部下の一人が何か小声で南容に言ったようだ。その後、南容は刃先を地面におろす。これでもう安心だ。
   しかし、文台はまだ息が荒い。一体、何があったんだ。

   そう思うと、私も南容同様、自然と牀から立ち上がり、文台の前に立っていた。そして口が動く。
「文台、相変わらず元気そうだな。潁川郡まで偵察に行ってたんだって?   敵の様子はどうだったんだ?」
   私は気さくに話しかけていた。生きの良いのは数年前と変わらないが、何かに追い込まれているようだった。文台は視線を合わせず、まだ激しい息づかいをしている。
「ここには、今、兵卒はどれくらいいますか?」
   と文台の口から唐突な質問。
「約八千人です」
   即答したのは張子並だ。それを聞いた文台の顔に生気がよみがえってくる。
「それだったら、五分五分だな……では、朱中郎どの、今すぐ潁川郡に向けて出兵しましょう!」
   文台は早口にまくし立てた。
   兵数が同じぐらいだと言いたいのか?   たとえ相手が訓練をしていない賊軍とは言え、侮っていると大敗する。そんなことは文台ならわかるはずなのだが。
「待て、まだ八千人じゃないか。そんな人数で出兵しても意味ないぞ」
   考えが素直に口から出た。多分、考えが顔にも出ていることだろう。
   文台は目の前の虚空に右手をかざす。まるで何かを押しのけるような仕草だ。
「いや、撃退できなくても、侵攻をくい止められればいいのです」
   ようやく文台はこちらへ眼差しを向けた。それは相変わらずの純粋な熱い目だ。しかし、彼の口からでる言葉の意味は理解できない。

「孫文台どの、いったい何の話をしているんですか?」
   深い沈黙の中、その場の皆の意見を代表するかのように南容は質問した。ぽかんとした表情だ。
   それに文台は何かに追われているような表情を返す。
「太平道の賊徒たちが、今はゆっくりでまとまりがないですが、確実に集結しながら京師に向かってきてます」
   そういって文台の眉間のしわはより深くなった。

   太平道とは張角の信じる道だということはわかる。だが、彼らがもうこちらへ進軍しているなんて誰も思いも寄らないでいただろう。想像外のことに沈黙が続く。

   だが解せない。文台がなぜそんなに急いだ様子なのかがわからない。いつかはともかく、敵がこちらへ進軍してくるなんて当たり前のことだ。それなら兵数が整ってから当たればいいじゃないか。
「まあ、敵は二、三万人ってとこだろ?   今は我が軍は八千人だけど、数日で四万人まで兵卒が集まるから、それから撃退するのが確実だろ?」
   考えがそのまま、文台をなだめる言い方になっていた。
   文台は表情を変えない。歯を食いしばり決然とした様子だ。

   少し考え込んでいたのか、文台は間をおき、ようやく口を開く。
「いえ、敵の数は十万人以上です!   それに時間はありません。まとまりのないうちにたたかないと。賊徒たちが一丸となって潁川郡を出て司隷へ侵入することを許し、賊徒たちを勢いづけさせれば、京師はあっという間に賊徒の手に落ちてしまいます」
   文台は力強く言い放った。
   また場の沈黙を招く。

   文台の偵察は信頼できるもの。本当に隣の潁川郡の敵軍はそれほどの規模なんだろう。
   文台の言うように、そんな敵軍が一丸となって京師へ向かってくるところを思い浮かべる。その想像で真っ先に出てきたのが、なぜか、横たわる女性の遺骸。そうだ、義真に初めて会ったとき、私が京師で見た光景だ。
   そうか、十万ものの大軍が京師近くまで来たら、京師が大混乱に陥ると連想したんだ。少し前、京師で反乱を起こす者たちのことが明るみに出たとき、関与していない者も含め千人あまりの者が殺された。それを考えると、京師の人々が互いに疑心暗鬼になり、無意味な殺し合いが起こらないとも限らない。もしかすると、直接、戦う兵卒たちより被害が大きくむごたらしいことになるかもしれない。
   女性の亡骸を見たとき、確かに感じた、もうこんな思いはたくさんだ、と。何より義真に声をかけられたとき、自分が卑屈になっていくような感覚に襲われたのが嫌だった。


   ふと気付くと、場にいる五人すべてがこちらを向いていることに気付く。
   その理由はわかる。

   みな、私に決断を求めているんだ。
   ここが運命のわかれ目だ。

「京師を守るのは大将軍に任せれば良い。我々は攻める軍だ。先に賊徒たちに攻め込まれたとあっては我が軍の名折れ、ひいては京師の危機だ」
   私は決断の前に一呼吸をおいた。もうあんな惨劇はたくさんだ。

「我々の軍は今でも充分、強い。武具も鍛錬も充実している。数の問題じゃない。潁川郡に乗り込み、敵の機先を制し、やつらの度肝を抜いてやろうではないか!」

   その場の五人すべて、賛成の声をあげていた。