2008年5月の日記:[以前の日記]
 
 
5月28日(水)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 34 枚
34 枚目の使用行数 : 5 行

どうも原稿の棄てる先がなくなったせいか気が抜けまくってまったく進んでない。
こりゃ、書くのが楽しくなるまで充電が必要だな。。。
六月に入ってからでも復活すると良いのだけど。
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5月26日(月)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 33 枚
33 枚目の使用行数 : 5 行

さっき気付いたんだけど、今、書いているやつの棄てる先にしようとしているところ、今年はどうやら受付をしていないようだ(汗)

まぁ、どちらにしても実にならないやつなので、とりあえず気楽に書き上げるか。。。
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5月25日(日)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 31 枚
31 枚目の使用行数 : 15 行

数字上ではノロノロペースもすっかり板についた感じだけど(汗)、物語では遷都がついに開始される。
次は陵をあさるシーンだな。
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5月22日(木)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 25 枚
25 枚目の使用行数 : 5 行

今日の凡ミス。
伍瓊と周リとの官職を一つ前の官職と勘違いして書いていた。
まぁ、すぐ訂正できて良かったが。
時間かけている割になかなか進まないなぁ。
上記のような感じで気付いて書き直している箇所が多いってのもあるけど。
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5月20日(火)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 20 枚
20 枚目の使用行数 : 16 行

許文休が京師から脱出を書き終え、次は遷都前のごたごた。
朱公偉を副にしようとしたエピソード。
ここらへんから表だっても朱公偉と董仲穎の亀裂が出始めたところやね。しっかり描いて行こう。。。


図書館で『漢代都市機構の研究』の延長手続きをしてきて、ついでに岡田斗司夫/著『プチクリ 好き=才能!』を借りてきた。
初め、今までの著作に比べスカスカな感じと軽い文体に面食らったが、読んでいくうちにそれは明るく前向きなテーマに沿ったものとして必要なものと知って安心する。
ええ感じのイラストと相乗効果でクスリと笑ったし、まんまと勇気づけられた。
そのため、内容も少ないこともあるだろうけど、二日ほどで読み終える。
じっくり読みたかったが、先を読みたいという気持ちに抗しきれず(笑)。
順に読んでいった後の「おわりに」が良いね。なるほどー。

というわけで、今、その時に販促として出来たブログ二つを読んで余韻を楽しんでいる。
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5月17日(土)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 15 枚
15 枚目の使用行数 : 12 行

ようやく物語上、董卓が出てきた。
月末には旅行が控えて居るんで、ペースアップをはからんとなね。
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5月12日(月)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 9 枚
9 枚目の使用行数 : 14 行

伍瓊、周リが殺される前のあたり。
たがが外れたように説明臭くなっている(汗)

まぁ、何とか軌道に乗りつつあるんで、良いか。
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5月10日(土)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 5 枚
5 枚目の使用行数 : 20 行

『漢代都市機構の研究』はとりあえず私的に最低限要るところを読んで、小説書きのフェイズに遷るところなんだけど、なかなか気が向かない感じ。
いろんな人のブログや掲示板を読んでモチベーション上げている。
とりあえず体をならさなければ。

てなもんで、まだ朱儁のところに弘農王殺害の報が届けられているというシーンのところ。

※参考 遷都

今回は短い小説とはいえ、油断していると、切羽詰まってそう。

というか、

歴史に触れ楽しくて高揚する感じ + この喜びを広めたいという欲求
  → 執筆の原動力

と繋げられるような図式になるよう気持ちをコントロールしたいところ。
この図式をもっと細分化し、何段階にも分けていくとか。
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5月5日(月)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 3 枚
3 枚目の使用行数 : 4 行

というか小説はさっぱり進めてない。
というのも図書館から借りてきた佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』が目からウロコ過ぎ。
例えば前から私が疑問に思っていた、朝会はどこで行われていたというのがあっさり「後漢代の司徒府の堂は「百官朝会の殿」と言われ、天子の臨席のもとに…」(P.217)と書かれており、もちろん専門書だからちゃんと注釈つきで出典も書かれている。
それに府の長がどこで政務をこなしていたかというとやっぱり堂(殿)なんだね。


そこを読んで、漢の初期から、相国→丞相→大司徒→司徒と変遷があると再認識した。
それで話は変わるが、董卓は相国に就き、さらには楊彪を司徒したんだね。
これは董卓が太尉に就きつつ劉虞を大司馬にしたのと何か意味合い的に似ている。
何か政治的意味があるのかな??
あと、董卓が相国のときは相国の殿が「百官朝会の殿」になっていたのかな??

話戻して佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』については、一通り読み切る前に近い内に三国志ニュースで紹介することにしよう。
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5月3日(土)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 1 枚
1 枚目の使用行数 : 12 行

5月1日から執筆スタートということだけど、予想通り、導入部分に迷いがあって、進めることが億劫になっている。
まぁ、結局、考えすぎないで先に進めることが効率的という結論になりそうだけどね(汗)


話は変わるけど、ふと朱儁に子どもがいたか気になって『後漢書』朱儁伝を見ると、皓という子がいて、豫章太守までいったそうな。
他のところには載っていないんだろな、と手元の電子文献で検索かけてみると、意外に『三国志』蜀書諸葛亮伝というメジャーどころ載っていた。
漢朝から豫章太守として派遣されたとかで、諸葛玄を攻撃したとかで。
意外なところにあるもんだなー。
『三国志』呉書劉[(夕/缶)系]伝の注に引く『獻帝春秋』によると朱皓の字は文明とのこと。
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