2007年4月の日記:[以前の日記]
 
 
4月29日(日)
 
 
というわけで予告通り後漢書西羌伝からのメモと抜粋。本当に小説関連はそれしかやってないので、全然、進んでいない。
でもおかげで有用な情報はあれこれ手に入れた。

後漢書西羌伝

・韓・魏連合により、西にうつった。(それまで中国の中にまざっていた。)

至周貞王八年、秦q公滅大[くさかんむりにi]、取其地。趙亦滅代戎、即北戎也。韓・魏復共稍并伊・洛・陰戎、滅之。其遺脱者皆逃走、西踰[シ并]・隴。自是中國無戎寇、唯餘義渠種焉。

・北地郡ができたいきさつ。

至王赧四十三年、宣太后誘殺義渠王於甘泉宮、因起兵滅之、始置隴西・北地・上郡焉。

・赤眉之際にも寇金城・隴西だって

[シ眞]良者、燒當之玄孫也。時王莽末、四夷内侵、及莽敗、衆羌遂還據〔西海〕為寇。更始・赤眉之際、羌遂放縱、寇金城・隴西。

・護羌校尉ができたいきさつ。あと天水・隴西・扶風三郡へ強制移住

光武從之、即以牛邯為護羌校尉、持節如舊。及邯卒而職省。十年、先零豪與諸種相結、復寇金城・隴西、遣中郎將來歙等撃之、大破。事已具歙傳。十一年夏、先零種復寇臨[シ兆]、隴西太守馬援破降之。後悉歸服、徙置天水・隴西・扶風三郡。明年、武都參狼羌反、援又破降之。事已具援傳。

・三輔へ強制移住

永平元年、復遣中郎將竇固・捕虜將軍馬武等撃[シ眞]吾於西邯、大破之。事已具武等傳。[シ眞]吾遠引去、餘悉散降、徙七千口置三輔



・傅育って北地人? 傅燮の親戚?(んなわけないか)

  章和元年、育上請發隴西・張掖・酒泉各五千人、諸郡太守將之、育自領漢陽・金城五千人、合二萬兵、與諸郡剋期撃之、令隴西兵據河南、張掖・酒泉兵遮其西。並未及會、育軍獨進。迷吾聞之、徙廬落去。育選精騎三千窮追之、夜至建威南三兜谷、去虜數里、須旦撃之、不設備。迷吾乃伏兵三百人、夜突育營、營中驚壞散走、育下馬手戰、殺十餘人而死、死者八百八十人。及諸郡兵到、羌遂引去。育、北地人也。

漢陽・安定・隴西へ分徙

初、累姐種附漢、迷唐怨之、遂撃殺其酋豪、由是與諸種為讎、黨援益疏。其秋、迷唐復將兵向塞、周鮪與金城太守侯霸、及諸郡兵・屬國湟中月氏諸胡・隴西牢姐羌、合三萬人、出塞至允川、與迷唐戰。周鮪還營自守、唯侯霸兵陷陳、斬首四百餘級。羌衆折傷、種人瓦解、降者六千餘口、分徙漢陽・安定・隴西。迷唐遂弱、其種衆不滿千人、遠踰賜支河首、依發羌居。

・北地で天子を名乗る羌

於是[シ眞]零等自稱「天子」於北地

・北地から池陽に避難

羌既轉盛、而二千石・令・長多内郡人、並無守戰意、皆爭上徙郡縣以避寇難。朝廷從之、遂移隴西徙襄武、安定徙美陽、北地徙池陽、上郡徙衙。

・皇甫旗?

又使屯騎校尉班雄屯三輔、遣左馮翊司馬鈞行征西將軍、督右扶風仲光・安定太守杜恢・北地太守盛包・京兆虎牙都尉耿溥・右扶風都尉皇甫旗等、合八千餘人、又ほう參將羌胡兵七千餘人、與鈞分道並北撃零昌。

・靈州も戦場に

明年夏、度遼將軍搶率南單于及左鹿蠡王須沈萬騎、撃零昌於靈州、斬首八百餘級、封須沈為破虜侯、金印紫綬、賜金帛各有差。任尚遣兵撃破先零羌於丁奚城。秋、築馮翊北界候塢五百所。任尚又遣假司馬募陷陳士、撃零昌於北地、殺其妻子、得牛馬羊二萬頭、燒其廬落、斬首七百餘級、得僭號文書及所沒諸將印綬。



・北地攻められる

詔沖督河西四郡兵為節度。罕種羌千餘寇北地、北地太守賈福與趙沖撃之、不利。

・永和羌叛の期間

自永和羌叛、至乎是年、十餘年間、費用八十餘億。

・皇甫規登場。皇甫規が先零種を破っている。

延熹二年、訪卒、以中郎將段ケイ代為校尉。時燒當八種寇隴右、ケイ撃大破之。四年、零吾復與先零及上郡沈テイ・牢姐諸種并力寇并・涼及三輔。會段ケイ坐事徴、以濟南相胡●代為校尉。●無威略、羌遂陸梁、覆沒營塢、寇患轉盛、中郎將皇甫規撃破之。五年、沈テイ諸種復寇張掖・酒泉、皇甫規招之、皆降。事已具規傳。

・張奐登場

永康元年、東羌岸尾等脅同種連寇三輔、中郎將張奐追破斬之、事已具奐傳。

・黄巾が原因で北地降羌が反乱。北地降羌いたんだ…どの時点?

中平元年、北地降羌先零種因黄巾大亂、乃與(漢)〔湟〕中羌・義從胡北宮伯玉等反、寇隴右。事已具董卓傳。

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4月28日(土)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 25 枚
25 枚目の使用行数 : 19 行

後漢書西羌伝に目を通して、その時に生じたメモをここで披露、って予定だったけど、後漢書西羌伝が意外に長く、みているうちにあることに気付く。
今回、歴史学ファンタジーをふんだんに使いたいな、と思い、地の文に出典を入れるどころか、光和年間の登場人物に出典を言わせているんだけど、その中で徐幹の『中論』を言っている箇所がある。
何か、違和感があって後で調べてみると、その違和感が的中。おもいっきり検索結果に『三国志』が登場。
徐幹は建安年間の人、つまり登場人物にとって未来の書を出典として出している(汗)

いや〜、気付いてよかった。危ない危ない。

ところがそこからが大変で、代わりの出典を探す。一つの出典を二つの出典と出典なしに変更。
その作業光景が今回、あげた画像。エディタでキーワードを頼りに手元の電子テキストをあたるんだけど、タブが大量にでてきてタブバーが複数行になってごちゃごちゃした画面になっている。

それから某SNSから日記を以降。とりあえずこれで去年分は終了だね。
2006年11月の更新歴というより日記
2006年12月の更新歴というより日記
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4月25日(水)
 
 

必要な原稿用紙の枚数 : 25 枚
25 枚目の使用行数 : 4 行

やっぱり書き始めて、調べると、そのまま史料の世界に篭もってしまう(汗)
今回は傅燮が皇甫嵩からの名刺を見るってところ(無論、創作)で、そういや、名刺は「謁」か「刺」って言うんだっけと思って、あれこれ読み込んでしまう。
悔しいんで、三国志ニュースにする。

三国時代あたりの名刺(謁、刺)


本当はそれより後漢書西羌伝に目を通そうと思っていたのにね。トホホ。
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4月24日(火)
 
 
すっかり日記ならぬ月記になってしまった、なんて月並みなことを書いておこう
傅燮小説は書き始めている。いや史料をあさっていたら、その世界に連れていかれてしまいそうなので、まずは始めないと。

必要な原稿用紙の枚数 : 23 枚
23 枚目の使用行数 : 1 行

今、カウントしてみると、こんな感じだね。枚数的には四分の一に近づいているといったところだろうか。
書き手的には歴史学ファンタジーをふんだんに取り入れているつもりだけど、どうみてもただ知識ひけらかし系と見られかねない出来。むむ。
南容さんが喪に服し故郷に帰ってきたところまで書いて、今、皇甫嵩との邂逅のシーン。
前回に引き続き、いかに省略して書いていくかがテーマ。

五月初めには好例の三国志城旅行もあるんで、ここに書きつつ、テンションを上げていくか。
今、これを書いている時点では日記のペースを上げるつもりだけど、果たしてどうなることやら。
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