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京師奪還
2009.08.31.
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   どこにも掲載予定のない三国志小説をサンプルとして公に晒し作者のモチベーションを高めるページです。原稿用紙259枚分ある小説の冒頭部分です。


   二十歳にも満たない男が、雨水の幕を傘で掻き分け街を進んでいた。
   官吏らしく足首まである単衣を纏っているため、下半身はすでに泥だらけになっている。それは男の身分を示す綬にも及んでおり、腰から青紺色の長い絹は茶色に染まりつつあった。
   とある門の前で男は立ち止まり、庇の内へと入り傘を閉じる。門には顔馴染みの少吏が居て、頭を下げることで粛し、出迎えを受ける。同じように粛を返し、傘を手渡し、書き留めるための一つ版を両手で持ち、奥へと向かう。
   中庭に容赦なく降り注ぐ水を廊の庇で避け、後門に到達する。そこから奥へ男は頭に戴く冠を濡らす覚悟で、中庭の令甓裓(れんがしき)を足で着実に踏みしめ前へ出る。
   自らの頭上の先には冠の一部としてまず梁と呼ばれる鉄の一角があり、水はそれを通り落ち、次に頭全体を覆う幘を湿らし、簡単に男の髪へと浸み入り眉間や耳の裏を過ぎる。それを感じつつも少しも拭おうとせず目は行く先の堂上を捉えている。
   堂下まで辿り着くと、向かって左の階の前で履(くつ)を脱ぎ、素足で堂上へ昇る。中庭からの雨音とは打って変わって、堂の屋下には四十代半ばの男が静寂と共に鎮座していた。その頭の上には来訪者と同じく一つの梁が戴かれているが、その腰下には黄色の綬が垂れており、より高位の官吏だということを辺りへ報せていた。体は中庭の方を向いているものの、目線は机の書簡へ落とされている。やがて面を上げ静寂を破る。
「足元の悪い中、ご苦労だった。どうか腰を落ち着けたまえ」
   座る男は気遣う言で迎えた。立つ男は敷物の前で膝を着け、胸の前で左手を右手の上に置き頭を腰と水平に降ろし、拝礼を見せる。
「堂上を雨水で汚し申し訳ありません。この上、席を汚すのは気が引けます」
   頭と腰を上げた後、来訪した若い男は座ることを躊躇していた。
「構わない。後ほど少吏に掃除させれば済むことだ」
   待ち受ける男は手振りで座ることを促した。それに応じ席の上に両脚を畳み腰を下ろし、すぐさま口を開く。
「予定通り銭五万を郡の倉曹に支払いました。だからと言って、やはり周功曹がここを訪ねに来るとは思えません」
   眉根を寄せ不安感を面に出した。
「思いもかけない者から見返りなしの大金が入れば、誰であれ感謝の意を示しに足を運びたくなるものだ。ましてや周功曹は我が身を顧みず、故(もと)の太守の横暴を諫めたほどの清廉な男だ。同志を見つけたと思い飛んで来るに違いない」
   年上の男は口の端を挙げ自信を表情に滲ませていた。
「そうであれば良いのですが」
   呟くように言を吐き、虚ろな表情を伏せた。
「倉曹の官舎から真っ直ぐここへ来たとしてもまだ充分に間がある。来るべき時に備え、足下は着替えて来るが良い」
   その一言で我に返ったように面を挙げる。
「唯(はい)」
   承諾の返事をその場に残し、年下の男は立ち上がり姿を消した。
   男が堂上へ戻り、再びその場は二人の男で占められた。雨は小降りとなり中庭からの音が消えかけ、一時が過ぎようとした頃、鈴下の地位にある顔馴染みの若い男が堂下から姿を見せ上がり一拝する。
「會稽郡の周功曹がお目見えになりました」
   そう言って謁と呼ばれる一尺の木簡を掲げた。年下の男はそれを手に取り目を通す。
「周規、公圓と字(あざな)す…やはり間違いなくあの周功曹です」
   上擦った声を上げた。
「では門まで迎えに出るのだ…くれぐれも落ち着いてな」
   それを承け年下の男は「諾」と返し、立ち上がり、西階から中庭を通り、外門のある南へと歩く。その足取り一歩一歩に興奮を踏みしめる。
   男が向かう先に、年三十前後の頬の削げた者が立っている。その頭上には同じく一梁の進賢冠が載っていて、腰から黄綬を帯びている。
   早速、門前で頭を下げ粛すことで、来訪者を中へと導く。二人は奥へ奥へと並んで歩む。
   最後の門を潜ると、南面していた年上の男は堂の東側で西面していた。それに驚きつつも、年下の男は周公圓と礼に則った動作をした後、主客分かれ、それぞれ東の階、西の階を通じ、堂上へ登る。
   西側に立つ周公圓に対し、東側に二人の男が立つ。三人はそれぞれ膝を着き頭を下げ、一拝する。東の年長の男による勧めで、三人は各々、足元の席へと座する。
「この県邸にどのようなご用件で足をお運びになられたのですか」
   東南に座る年長の男はこの場の主人としてまず口火を切った。
「身(わたし)は朱書佐に用がありこちらに参りました。まさか上虞の県長がいらっしゃるとは思いも寄らぬことでした」
   公圓は応じた。北東に座る年下の男も口を開く。
「申し遅れました。愚(わたし)が上虞県の門下書佐に就く朱儁で公偉と字す者です」
   年下の男は自らを公偉と称した。公圓は驚いた様子で、顔を右から左へと移す。
「足下が朱書佐か。この度は銭五万を投じ、我が身を解放してくれて有り難く思う。しかも聞けば、失礼ながら足下は母と二人暮らしで裕福とは言い難いのに、私財を投じたらしいではないか。その意を聞きたくてここに足を運んだ」
   自らの意向を伝えながらも、その鋭い目は時々、ちらりと南の年長の男を見ていた。その視線に気付いてか、発言する。
「ご存知かと思いますが、身(わたし)は上虞長の度尚、博平と字す者です。恐らく足下は人払いをし、朱公偉と二人きりで話を重ねたいと欲しているでしょう。しかしながら、この場に身が立ち会う必要があります。なぜならば、確かに朱公偉が庫曹に銭を払い足下を釈放させると言う案を立てましたが、まず身に相談を持ちかけられ共に行動を起こしたからです。この朱公偉は母が家業として売る絵帛を全て売り払ってまでして、銭五万を用意しました。是非、その熱意を汲み取って頂き、この会合を有意義なものにして頂きたく存じます」
   度博平と名乗る年長の男が告げると、公圓はまたしても驚きの顔で迎える。
「では、お二人は共にこの周規の事をご存知なのですか」
   公圓の質問に博平と公偉は声を併せ「唯(はい)」と答える。そのまま博平は語を紡ぐ。
「しかしながら、足下が借金を会稽郡へ返さないと言うだけしか、上虞県は掴んでおらず、核心の部分は依然、憶測で見ているに過ぎません。まずは足下から事実を教えていただきたく存じます」
   博平の眼差しを正面で承け、公圓は「諾」と答え、音のない深呼吸の後、ゆっくりと口を開く。
「ご存知のこともあるかもしれませんが、順序立てて最初から話します。そもそも身は前の太守の唐府君に登用を承け、功曹と言う郡の重職に尽きました。しかし、唐府君は貪暴を行い、郡の政治は乱れました。そのため、身は唐府君を諫めましたが、怒りを買いそれが罪にあたるとしその場で縛り上げられ鞭を打たれました…」
   その事は郡内で廣く知られており、当然、博平も公偉も把握していたが、当事者からの生の声を前に公偉は固唾を呑んで聞き耳を立てていた。
「…しかし、後日、その件が京師(みやこ)に知れ、むしろ唐府君の方が罪に当たるとし、檻車で京師へ召還されました。逆に身の諫言は功績に当たるとし、京師の公府に辟(め)されることとなりました。官吏であるお二人もご存知のように、京師で官吏をすると言う事は…」
   そう言いながら公圓は頭上の一梁進賢冠を右手で指差し、間髪入れず掌を広げ虚空で振った。
「…冠の費以外にも車馬の費や旅費など地元で仕えるより多大な費用が必要となります」
   公圓の言に両者は頷く。博平も公偉も若いときに父親を亡くしており、そのため家は貧しく県の冠費だけにも苦労しており、納得の行くところだった。公圓は続ける。
「身の家に財が無く困り果てた頃に、信頼できるある者が無利子無期限に金銭を貸与すると申し出まして、それを甘受しました。ところがその金銭は実のところ、その者の私有ではなく郡の公有でした。それを知った頃に倉卒督率いる兵卒に捕まり、貸与した者に問い合わせるも、覚えがないと惚けられるだけでした…」
   ここで博平が口を挟む。
「つまり、足下はその者の罠に懸かり窮地に追い込まれたと言う訳ですな…」
   さらに公偉が引き継ぐ。
「しかし、罠を仕掛けた者の目的は一体、何なのでしょうか」
   公圓は一旦、目を伏せ間を取り、やがて意を決したように両眼を見せる。
「これは未だ憶測でしかないですが、恐らく貸与した者は前太守である唐府君の息が掛かった人物であり、もっと言えばその様な人物はこの郡内に数多く潜んでいるのでしょう」
   場に響く音が収まるより早く公偉は疑問を呈する。
「唐府君はもうこの會稽郡の太守ではありません。何の義理立てをする必要があるのでしょうか」
   間髪入れず公圓が応えようとすると、博平が右手を前に出し制し、右に目を遣る。
「汝は知らないだろうが、唐府君は唐常侍の従兄だ。唐府君がこの郡から居なくなっても、未だ唐常侍の息の掛かった者が多数居ると言うことだ」
「あっ」
   博平の説明に公偉は間の抜けた声を上げ、事態を理解した。「唐常侍」とは中常侍と言う官職に就く唐衡を指す。中常侍は皇帝の側近くに仕える中官の一つの官職であり、陰にいて多大な影響力を持ち、多大な権力を握れる地位にあると公偉は理解していた。
「つまりはこの會稽郡も唐常侍による権勢の手中にあると言うことですか。京師から三千八百里以上も離れているのに」
   考えを声に出し、若い公偉は認識の正しさを確かめようとした。
「唐常侍だけからとは言い切れない。他の中官から…いや、可能性だけならば京師にいるどの大吏からをも権勢の手が到達し得る。問題はその権勢による傘の下に居ない者が害を被っている点だ」
   博平はより踏み込んだ言を承諾の言に替えた。公偉は博平の真摯な眼差しを感じる。
「身は京師へ出仕する前に、危うくその権勢の餌食になるところだった。汝にはいくら謝意を表しても足りないぐらいだ。このことは深く記憶に留めたい。汝の支払った銭は用意ができ次第、返すことにしよう」
   公圓の言に何か返そうとする公偉より早く博平が声を出す。
「身も公偉も、京師の官吏となる足下からの繋がりや見返りを一切、期待せずに救おうとした訳ではありません。だけれども、第一に足下のような義に厚い官吏をこのような辺郡に留めておくことは天下の罪だと感じたことも確かです。足下には京師でも己の信念を曲げずに居て貰いたいものです」
   博平に続き、同じ考えを持つと公偉が続ける。
   公圓は感極まった様子で拝し、面を挙げ話す。
「この三人がこの場で互いの意志を確認できたことは幸運でした。各地では、京師から広がる中官の権勢に対抗するため、どれも少数ですが大夫士等が結託し複数の党ができつつあると聞きます。我等もそれに習いこれからも交流を続けようではありませんか」
   その提案に堂の東側から即座に二つの「諾」が公圓の元に返って来る。博平と公偉は格式張って拝する。
   面を挙げると公偉は南からの爽やかな風を感じる。
   未だ曇っているといえども、中庭に降り注いでいた雨は止んでいた。



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