六朝史家の史論に現れた三国晋時代認識(富士大学紀要 第30巻第2号 1997年12月25日発行)

※前の記事 裴松之の史学観(早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊 第42輯 1997年2月28日)

 2023年7月29日土曜日昼過ぎ、前の記事に続いて国立国会図書館に居た。

・東京本館|国立国会図書館―National Diet Library
http://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/

 お目当ての論文のプリントアウトは忘れていたが、閲覧→複写は前の記事に続いて行っていて、今回は前の記事と同著者。

・富士大学
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・地域の皆さまへ
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 それは『富士大学紀要』第30巻第2号(富士大学学術研究会1997年12月25日発行)pp.115-126の宮岸雄介「六朝史家の史論に現れた三国晋時代認識」。
一応、目次を。

115 はじめに
117 一
120 二
124 結び
125 注

 前の記事の同著者論文と1年も離れてないので、テーマ的には近いものになるね。「はじめ」の冒頭で中国の史書の性格についてp.115「ともすると,事実の正確な叙述よりも,その史実をいかに道義的に解釈するかということの方が,史家に対して求められてきたきらいがある.」とあり論文のテーマ性が伝わる。取り上げる時代だと、魏晋以降、史家の価値がp.115「「単なる貴族の就職のたずき」に落ちたものの、立身出世の手段に使われたことはp.116「その記録を残して置かなければならないという歴然たる中国人の強い歴史意識が潜んでいたこと」ということ。勅撰の『晋書』では司馬懿と司馬炎の本紀、陸機と王羲之の列伝につける試論に太宗李世民が「制曰」と執筆している。そんな意気込みとは裏腹にp.116「『晋書』は史書としての後世の評判が良くなかった」と。
 「一」では魏を正統とする等、『三国志』の性格をはじめ、蜀正統論の習鑿歯『漢晋春秋』のできた由来にふれる。桓温が皇帝につくのを諫めるためと。習鑿歯「晋承漢統論」では魏の曹操を簒奪者と位置づける。散逸したが裴松之『三国志注』に残る『漢晋春秋』から時代認識を読み取っている。それは司馬懿・司馬師・司馬昭の記述、時には創作も交え、君主論が投影される。また老荘的な発想が混じりp.119「漢代以来,儒学の一ジャンルとして位置づけられてきた史学は,六朝という特殊な時代を経て,独立したひとつの学術としての中国士大夫から認識されるに至るが,その間に,儒学以外の価値観で人物の批評を行っているところに,これまでの史学にはない新しい局面を見いだせる」と。その後、三国蜀に対する時代認識についてで、劉備評、諸葛亮評をとりあげ論じられる。
 「二」ではp.121「南朝,殊に東晋王朝では,この西晋王朝の興亡の原因究明は緊急課題であった」とし、まず東晋の史家干寶『晋紀』に着目する。その流れでp.121「こうした運命を信奉する考え方は,一方で人智では計り知れない不可解な怪異の説に興味を抱かせ,干寶に『捜神記』等の怪異の書を編纂させる資質を発揮する重要な動機づけになっている.」というのが印象に残る。次が東晋の史家孫盛、前の記事の論文にも触れられた。p.122「このように厳格な儒家の精神を抱く孫盛にとって,人間行動の規範とはあくまでも「孝」,「忠」といった徳目で,これは史書の中で人物評価をする際も,最優先されるべき判断の根拠であった.」というふうに徳目についての時代認識が論じられる。この徳目とは逆にp.123「戦争の功績だけを評価する乱世の社会風潮を批判する主張を,さらに発展した形で議論しているのが,習鑿歯である」と論じる。こちらは「理」「信」の徳目を重んじると。
 「結び」では習鑿歯と裴松之にとっての三国の「正統論」が載せられる。

※次の記事 魏晋の史学思想(富士大学紀要 第31巻第1号 1998年7月10日発行)
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