5月17日は三国魏の文帝崩御の日

※関連記事
 8月29日は孔融の忌日
 4月26日は三国呉の大皇帝崩御の日
 リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)

上記関連記事にあるように、このシリーズの記事を書くこと自体、ここ数年書く機会を逸しているし、近年、数年越しに訂正しているぐらいなのだけど、めげずに記事に。

・『三国志』巻二魏書文帝紀
(黄初七年五月)丁巳、帝崩于嘉福殿、時年四十。六月戊寅、葬首陽陵。自殯及葬、皆以終制從事。

<清岡による訳>
(黄初七年、紀元226年五月)丁巳(十七日)、帝(曹丕)は嘉福殿において崩御し、時に年四十だった。六月戊寅(九日)、首陽陵に葬った。殯(かりもがり)より葬に及び、皆、終制により従事した。

上記のように、旧暦ながら、5月17日は曹丕字子桓の忌日だ。逆算すると、紀元187年生まれか。

それで下記にあるように、天子(皇帝)の曹丕であれば、七ヵ月後に葬となるのだけど、ここらへんは注で「魏氏春秋」や孫盛の記述が引かれている(いや面倒なので訳さないのだけど)。

・『礼記』王制
天子七日而殯.七月而葬.諸侯五日而殯.五月而葬. 大夫士庶人三日而殯.三月而葬

<清岡による訳>
天子は七日で殯し、七ヶ月で葬り、諸侯は五日で殯し、五ヶ月で葬り、大夫、士、庶人で五日で殯し、三ヶ月で葬る。

注に引く所の「魏書」によると、崇華前殿で殯されたそうで。ここらへん殯と殿を把握していると、殿の上に棺が置かれているイメージが頭に浮かぶ(…と『礼記』を今、いちいち参照してないので、詳細を省いてここでは書いているのだけど)。

あと先に触れた、『三国志』巻二魏書文帝紀注にあるに、「鄄城侯植為誄曰:惟黄初七年五月七日、大行皇帝崩、嗚呼哀哉!」とのことで本文の忌日と日付が違うのだけど、冒頭に関連記事としてあげた三国呉の大皇帝と同様に「十」の字が抜けているのかな、と思った(→『三国志集解』の該当部分でもそう書いているね)。

あと個人的には、下記関連記事にあるように、日本にこの情報が渡ってくる段階で、なぜか一部、曹丕が70歳まで生きていることになっているのが印象的だったりする。

※関連記事 7月16日 京都祇園祭宵山に菊水鉾

※追記 6月17日は三国魏の任城威王彰の薨去の日
http://cte.main.jp/newsch/article.php/3862