本サイトの雑記から分離整理したできたブログ。
タイトル通りライト層による単なるメモなので面白みはないかと思われます。
書き手がミラニスタなので内容はACミラン中心です。
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「プレッシングにも何種類かタイプがあって」


 ジョナサン・ウィルソン/著、野間けい子/訳『サッカー戦術の歴史 2-3-5から4-6-0へ』(筑摩書房2010年7月10日発行)を2013年12月30日に読み終える。メモをなくすがめげずにメモを取っていこう。時代順国別に章が立てられている

p.21(十九世紀前半)
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フォーメーションは未知のものであったし、試合時間や一チームの選手数でさえまだはっきりと決まっていなかった。基本的には監督生や年長の生徒が足でボールを運ぶが、タックルを受けてボールを運ぶが、タックルを受けてボールが転がった場合に備えてチームメートが彼らの背後に並び(バッキングアップ)、一方で対戦相手の選手、あるいは、ある特定の学校ではファグスと呼ばれる上級生の雑用をさせられる下級生が彼らを止めようとした。
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pp.26-27
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一八七二年にグラスゴーのハムデン・パークで行われたスコットランド対イングランド戦で、フットボールの最初の国際試合だった。イングランドのラインナップは、「ゴール」一名、「スリークォーターバック」一名、「ハーフバック」一名、「フライキック」一名、そして単に「ミドル」と記された四名、さらに「レフトサイド」が二名、「ライトサイド」が一名だった。現在の表記法を当てはめるのなら、バランスの悪い1-2-7に近いといえるだろう。
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p.33
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イングランドとスコットランドの伝統主義者の狼狽をよそに、パスゲームでは、互いの役割を模倣する傾向があった二人のセンターフォワードのうちの一人が深めの位置に下がることを意味した。一八八〇年代のうちには2-3-5フォーメーションのセンターハーフになったのだ。つまりピラミッド型だ。
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p.69
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 アーセナルは一九三〇年にFAカップに初優勝。チャップマンが約束したように、彼が就任したから五年目のことだったが、その頃には、新しいフォーメーションの形がはっきりと出来上がっていた。フルバックはインサイドフォワードではなくウイングをマークし、ウイングハーフは相手チームのウイングではなくインサイドフォワードにつき、いまやセンターバックとなったセンターハーフはセンターフォワードをマークし、インサイドフォワード二人は後ろに下がった。2-3-5は3-2-2-3、つまりW-Mフォーメーションとなった。
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p.77
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一九三九年、ユニフォームの背番号を義務化した際に、FAはのちのちの発展にまで思い至らず、2-3-5が普遍的であるかのように、あるいは、ほかのフォーメーションはただ2-3-5をいじくり回しただけのものでしかないというように、ライトバックは2番、レフトバックは3番、ライトハーフは4番、センターハーフは5番、レフトハーフは6番、ライトウインガーは7番、インサイドライトは8番、センターフォワードは9番、インサイドレフトは10番、レフトウインガーは11番と明記した。W-Mフォーメーションを採用していたチームは2、5、3/4、6/8、10/7、9、11の順番で並んだ。そのため、英国ではややこしいことに、“センターハーフ”は“センターバック”と同じ意味で使われることになった。
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p.96-97
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一九二六年七月一日に初の代表監督として就任したオットー・ネルツは早くからW-Mを採用していたが、ホーガンの教えはシャルケ04に受け継がれ、一九三三年から一九四二年までに行われた一〇度のチャンピオンシップ・プレイオフで六度も優勝していた。シャルケの監督のグスタフ・ヴィーゼルはオーストリア人で、彼の指導のもと、選手は渦巻きの別ヴァージョンを練習した。そのスタイルは「ジャイロスコープ」として知られるようになった。ディフェンダーのハンス・ボルネマンによると、ボールを持っている選手ではなく、ボールを持っていない選手がスペースに走り込み、その選手が攻撃の方向を決めるというものだった。
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p.131
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ブラジル・フットボールの誕生については、チャールズ・ミラーによってもたらされたといわれており、根本的にはそれを疑う理由はあまりないようだ。サンパウロでコーヒーと交易に携わった名士である英国人の父親と、ブラジル人の母親のあいだに生まれたミラーは、イングランドに留学して養育を受けた。
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一八九四年にサンパウロに戻ったときはフットボールを二つ持ち帰った。

p.143「“ダイアゴナル”(対角線)」のフォーメーション。左右非対称。
p.145 1941年フラメンゴが(自陣ゴールを上に)右下がり、1941年フルミネンセが左下がり

p.222 1952/53シーズン、インテル優勝
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 それでもなお、カテナチオは「弱者の権利」と見なされていて、アルフレード・フォーニ率いるインテルが採用してはじめて、ビッグクラブが優勝を狙うためのシステムとして見られるようになった。
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p.223
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 実践者としてもっとも有名になったのはインテルかもしれないが、カテナチオがどれほど強力なものになりうるかをヨーロッパ全土に最初に示したのは、ミラノの赤いチームの方だった。ロッコの非凡な才能のおかげである。角張った顔にぽっちゃりとした体で足の短いロッコは、なんとなく滑稽な人物に見えたが、彼は選手をほぼ完全に支配していて、練習場を出たあとも選手を監視させ、私生活がフットボールの妨げにならぬよう気をつけていた。
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P.278
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 オランダ・フットボールの創始者はジャック・レイノルズだった。

彼はオランダに避難し、一九一五年にアヤックスの監督にはじめて任命された。それからの三二年間でこのクラブの監督を三期つとめ、合計二五年の年月をここで過ごすことになる。
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p.278 ヴィク・バッキンガム
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彼は一九九三年にデイヴィッド・ウィナーのインタビューに答えてこのように述べ、その発言は『オレンジの呪縛』[西竹徹訳 講談社 二〇〇八年]に引用されている。「ロングボールを多用するフットボールは危険だ。最終的に頼りになるのは、しっかりと磨かれたスキルである。ボールを持ったら、それをキープすべきだ。そうすれば相手に点を奪われることはない…」。
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p.282クライフの逸話
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もっとも有名なのは、一九七四年ワールドカップの期間中にアディダスの三本線の付いたユニフォームを着るのを拒んだ話で、二本線のみのものを着ると言い張ることでプーマとの契約を尊重したのだ。
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p.282
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 トータル・フットボールという用語自体は、一九七四年ワールドカップの代表チームのパフォーマンスに反応して誕生したにすぎないが、「トータル」という接頭辞はさまざまな分野において用いられてきた。別の建築家J・B・バケマは影響力のあるフォールムという雑誌に寄稿して、「トータル・アーバニゼーション(都市化)」、「トータル・エンヴァイロメント(環境)」、「トータル・エナジー(エネルギー)」について語った。
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p.287
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 それを偶然の産物と呼ぶのは、クライフとミケルスの果たした役割を不当に軽んじることになるだろうが、彼らはロバノフスキーのようにヴィジョンを植えつけたというよりも環境に反応していたのである。アヤックスのプレイの決定的な特徴となっためまぐるしいポジションチェンジでさえ、最初は彼らの攻撃的スタイルに対向しようと相手が企てる密集ディフェンスに勝つための手段として生まれたのだ。
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pp.288-289
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 革命的だったのは、ポジションチェンジが横の移動よりもむしろ縦の移動だったことだ。ボリス・アルカディエフ率いるディナモ・モスクワでは、ウイングが中央に入り、インサイドフォワードがサイドでプレイしていたがディフェンス・中盤・前戦の三つのラインは、大まかにいって一定のままだった。偉大なるハンガリー代表はセンターフォワードが後ろに下がってレフトハーフが深い位置に置かれているためラインが曖昧になっており、4-2-4では攻撃的フルバックが登場したが、ミケルスのアヤックスはそういった全体規模のポジションチェンジを奨励した最初のチームで、それを可能にしたのがプレッシングだった。
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p.319
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ジョルナウ・ド・ブラジル紙はいつもは生真面目な新聞なのに、一九七〇年六月二二日付の紙面には驚くほど大胆な意見が述べられていた。「ブラジルがボールで得た勝利は、アメリカによる月の征服に匹敵する」と記されていたのだ。
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pp.331-332 1982年
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 イタリアは純然たるカテナチオというよりも「イル・ジョーコ・アリタリアーナ」(イタリア式プレイ)の段階にあったが、それでもまだ著しく守備的だった。
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p.332 イタリア 3-2 ブラジル 1982年7月5日ワールドカップ2回戦(バルセロナ、サリア) ジーコやソクラテスがいる。
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 この一戦はワールドカップ史上最高の試合だったのか? おそらくそうだ。とはいえ、一九五四年のハンガリーがウルグアイに勝った試合にも熱烈な支持者は常にいるだろうが。この一戦には確かに叙事詩を思わせる雰囲気があり、公式入場者数の四万四〇〇〇をはるかに上回る超満員の観客によってそれはさらに高まっていた。
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p.342
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 起源がなんであろうと、1-3-3-3でマン・マークを行い本当に自由なリベロを使うシステムはドイツのフットボールにおいて標準的となっていて、フォワードの一人が後ろに引いてプレイメーカーとなるという小さな修正が加えられたものの、一九八六年のメキシコワールドカップでその頃には西ドイツ代表監督になっていたベッケンバウアーが使ったのも、本質的にはまだそのシステムだった。
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p.383-402 第一六章 フットボールの知性 サッキとミラン

p.383
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 六〇年代にACミランがヨーロッパで成功すると、リベロはイタリアの標準値となったが、それから四半世紀、それを消滅させたのもヨーロッパでのACミランの成功だった。一九八三年のヨーロッパ・チャンピオンズカップ決勝で、ハンブルガーSVがユヴェントスに勝利し、指導者や評論家たちは、イタリア式プレイ(イル・ジョーコ・アリタリアーナ)の弱点に気づいたかもしれないが、二年後のヘイゼルの悲劇でユヴェントスがリヴァプールに1-0で勝利し、その優位性は再確認されることになった。
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p.383
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彼はその後ミランに移ったが、一九八七年にアリーゴ・サッキが後任に就いてはじめて、イタリアのフットボール界はマン・マーキングを放棄し、プレッシングという総合的なシステムを取り入れることに将来性を見出したのである。
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p.389
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「すべての鍵はコンパクトなチームにある」とサッキは説明した。つまり、サッキはチームをディフェンスラインとフォワードラインのあいだのスペースに押し込んだのだ。オフサイド・トラップを積極的に使ったため、ほかのチームにとっては彼らの裏のスペースを取るのが難しくなり、そこを突破しようとするチームは連続して三つの障壁を壊していかなければならなかった。
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p.393 アリーゴ・サッキ監督 4-4-2
ミラン 5-0 レアル・マドリー 1989年4月19日チャンピオンズカップ準決勝(ミラノ。サンシーロ)

ガッリ
タソッティ バレージ コスタクルタ マルディーニ
ドナドーニ ライカールト アンチェロッティ コロンボ
フリット ファン・バステン

p.396
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「それにプレッシングにも何種類かタイプがあって、試合の中で使い分けた。一つは部分的プレッシングで、これは主導権争いが目的だった。もう一つはトータルプレッシングで、これはボールを奪うことを主眼にしたもの。それからフェイクプレッシングは、プレッシングをかけるふりをして、実は守備を立て直す時間を稼ぐものだった」
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pp.396-397
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 その中核となるのは、シャドウプレイだった。イングランドでは六〇年代からよく見られたものだが、ヨーロッパ大陸では革新的だった。「試合がある日は午前中に特別なトレーニングを行った」とサッキは言う。「ブトラゲーニョに聞いたが、レアル・マドリーとの準決勝の前に、彼らはわれわれの練習にスカウトを寄越したそうだ。そのスカウトが報告した。「ミランはフルサイズのピッチで一一人揃って、対戦相手もボールもなしにプレイした」と。フォーメーション通りに選手を並べ、想像上のボールがある場所を伝え、選手たちはそれに合わせて動いた。想像上のボールをパスし、選手のリアクションに合わせてピッチの上を時計の針のように動いた」。
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p.400
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 この試合にはまた別の見どころがあった。つまり、トータル・フットボールの伝統を受け継ぎ、ロマーリオとフリスト・ストイチコフという型破りな攻撃陣を擁したヨハン・クライフの攻撃的なバルセロナ、対するはミランの守備陣というものだ。
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p.401
カペッロ監督 4-4-2
バルサの中盤にグアルディオラがいる。

ミラン 4-0 バルセロナ 1994年5月18日チャンピオンズリーグ決勝(アテネ、スピロス・ルイス)

ロッシ
タソッティ ガッリ マルディーニ パヌッチ
ドナドーニ テサイー アルベルティーニ
                    ボバン
サヴィチェヴィッチ マッサーロ

p.406
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そして二〇〇〇年頃にはイタリアのフットボールは袋小路に突き当たり、カルロ・アンチェロッティ監督がACミランで現代のレジスタ(司令塔)、アンドレア・ピルロを中盤の底に置くまでそこから抜け出すことができなかった。
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p.406
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FIFAが一九九〇年ワールドカップ後にルール改正を行い、バックパスと背後からのタックルを禁止したのが大きかったが、それだけではなかった。
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p.407
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イタリア人はプレイメーカーを、トップ下でプレイする(たとえばトッティ)トレクァルティスタと、深めに位置するレジスタ(たとえばピルロ)に分けた。しかしアルゼンチンでは、プレイメーカーは“エンガンチェ”(文字通り、つなぐ)と呼ばれ、常に中盤と攻撃のあいだでプレイする。
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pp.436-437
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 フォワードにゴールはもちろん欠かせない──特に価値あるものは──し、ゴールを決めないフォワードは特殊なケースだが、本当にすばらしい現代のフォワードは、昔のストライカーコンビのハイブリッド型のように見える。ディディエ・ドログバとエマニュエル・アデバヨルなどは二人ともターゲットマンで俊足、巨大な槌のように守備を破り、ゴールを決め、フィジカルで圧倒するが、同時に洗練された技術も持つ。ティエリ・アンリやダビド・ビジャのような選手はクリエイターと点取り屋の両方のいい点をミックスしたもので、深めに位置することも、ワイドに張ることもでき、ラストパスを出すこともできるし、自らチャンスをものにすることもできる。その両極のあいだに位置するのが、アンドリー・シェフチェンコ(ディナモ・キエフとミラン時代の)、ズラタン・イブラヒモヴィッチ、サミュエル・エトー、フェルナンド・トーレスだ。
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p.407のローマ2006-07の4-1-4-1にメクセスの名がある。

※追記(カルチョと無関係な記事)・レポ3:九州三国志忘年会(2013年12月29日)

※追記・公式戦初戦(2012年5月29日の雑記)

※追記・キャプテン翔(2012年7月10日の雑記)

C O M M E N T


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