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こんばんわ。
以下、前提条件や共通認識の確認になります。
一般的に羅貫中『三国演義』の成立は[#?元末明初]と言われいます。例えば、下記の中林史朗先生の論文の冒頭では「明の羅貫中が著した章回小説『三国志演義』」という表現です。
・日本人に於ける三国志とは
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/nanjyaina.html
その成立については、下記の論文の冒頭で「小説『三国志演義』のストーリーが、宋元明の講唱文芸「説三分」(1)の中で醸成されたものであることは中国文学史の常識に属すると言ってよいが、」とあり、おっしゃる宋代では『三国志演義』は未だ成立してないとするのが一般的です。
上田望「人はなぜ三国志の物語を「唱う」のか:詩讃体購唱文芸に見える三国故事作品の生成と流通について」(金沢大学中国語学中国文学教室紀要 6, 69-97, 2003-03-30)
http://hdl.handle.net/2297/1029
また、下記のような有名どころ(劉備が敗れると子どもが泣き曹操が敗れると喜ぶってやつです)にありますように、おっしゃるとおり宋代の講談の類で三国のことがありますが、それは小説の『三国演義』ではありません。
・蘇軾『志林』巻一「懷古 塗巷小兒聽説三國語」
王彭嘗云:「塗巷中小兒薄劣、其家所厭苦、輒與錢、令聚坐聽説古話。至説三國事、聞劉玄徳敗、顰蹙有出涕者;聞曹操敗、即喜唱快。以是知君子小人之澤、百世不斬。」彭、[小豈]之子、為武吏、頗知文章、余嘗為作哀辞、字大年。
なにか『三国演義』を誤解されているような印象を受けましたので、認識確認のために書きました(逆に、投稿された意図に対する私の認識が誤っている可能性もありますし)。
▼R・Fさん:
>質問です。
>
>一部にしか目を通していないのですが、以前から、「晋書」には正史でありながら妙に司馬氏に批判的な内容が目に付くように感じていました。
>
>ウィキメディアの項。
>「晋書」には
>房玄齡伝の評語でも『晋書』を編纂した史官は文学人が多かったため、怪しげな話を採用し、広く異聞を集めるのを好んだ。その記述態度は奇抜になり、正確であることを求めなかったとする。
>
>とあります。
>気になったのは「史官は文学人が多かった」の一言。
>
>「三国演義」の正確な成立は不明ですが、宋代に講釈が行われていたという記録があるそうで、唐の頃にも講談があったのではないかとの推測も聞いたことがあります。
>
>そこで質問ですが。
>「晋書」が作成される唐の頃には、すでに「三国演義」は知られていて、その内容が「晋書」の内容に影響を与えた(例えば、司馬懿は曹操の生存時から簒奪を目論んでいた等)ことはないのでしょうか。
>
>ご教示を宜しくお願いいたします。
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