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▼清岡美津夫さん:
▼ペテン師さん:
▼梟さん:
レスをありがとうございました。
亀レスになって申し訳ありません。
>えっと10歳年長説は当方も賛成なんです。
>袁紹の子供の袁譚と袁煕が190年の時点で成長(成人年齢にたしている)ようなので…
子供の年齢から逆算とは面白い見方ですね。まったく思いつきませんでした。
私が「袁紹10歳年長説」の可能性を感じたのは死去年齢からです。
202年で病死…。曹操と同年だと(数えで)48歳。敗戦で気落ちしているとはいえ、50前で病死。それだけならともかく、この計算だと、年下といわれている袁術
は40歳半ばにして病死(199年)したことになります。「50歳で天命を知る」と云われた当時でも、少し無理があるような気がしたわけです。
>大將軍の事に関する史料の読み方についての疑問がありましたが,その史料は確実に大將軍の辟召であり,184年乃至185年頃の応辟と考えられます。
>これは制度的な側面から断定できることです。
回答ありがとうございます。
『辟召』は府を開いた者(三公、大将軍)だけではなく、州牧・国相・郡守も行使できたと聞いていましたので、前職が河南尹であった何進に『辟召』されたのでは、と想像していたのですが、そうではなかったようですね。
>倉亭の戦いは「戦い」というほどの事はありません。『魏志』の武帝紀に
>六年夏四月,揚兵河上,撃紹倉亭軍,破之。紹帰,復收散卒,攻定諸叛郡県。
>とあるだけです。文学が専門ではないので,断言できませんが,意図的に読み間違えれば,これを一つの文として理解して,この倉亭で敗れた後に袁紹が冀州に帰ったと読めます。しかし普通,これは引いた史料で最初に「。」をつけたところが文の切れ目で,前後の話はまったく別です。
>古代史の潜在的な問題点ですが,史料が少ないために何とも言えませんが,倉亭は東郡にあるので,袁紹側からすれば,黄河を渡った先の駐屯地になり,曹操が防衛線を黄河にまで引き戻したと考えるのが妥当であろうと思われます。
ご指摘の通り、読み間違いをしていました。
ということは、袁紹が叛徒の鎮圧にかまけている隙を突いて、曹操が倉亭を攻略。
防衛ラインを黄河にまで押し戻した。
それから州内の鎮圧に出かけていた先から、冀州に帰った袁紹が敗兵を再編した、ということでしょうね。
>袁紹の字なの本初が元年しかないのもあるのですが、何で本初とつけたのか一度考えたことがあります。
>関係ないのかもしれないけど、本初元年って袁家の袁湯が司空になった年でもあるので、その慶賀あやかって付けたのかなって思ったりもしてました。
私も、同感です。出生年の年号を字にした人が他に思い当たりませんので、何か特別な意味を込めているような気がします。
清岡美津夫さんから紹介頂いた、
>石井仁/著『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)
>「経歴からいって、袁紹の方が十歳ちかく年長だったはずであり」という記述があるようですね。
同書には、袁紹の経歴や曹操との係わりから、十歳ちかく年長だっただろうと書かれていますが、146年(本初)生まれについては触れられていませんでした。まぁ、曹操の事跡を主とした内容ですから、曹操とは関わらない部分に詳しい考察がないのは当然といえば当然ですが。
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