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【1198】袁紹は天下を取れたの!? 北陸校尉 2004/8/8(日) 8:20 教えて

【3182】Re:『曹操 魏の武帝』 R・F 2008/8/27(水) 20:46
┗ 【3184】Re:『曹操 魏の武帝』 ペテン師 2008/8/27(水) 23:02 ひと言
┗ 【3185】Re:『曹操 魏の武帝』 2008/8/28(木) 22:45
┗ 【3188】Re:『曹操 魏の武帝』 ペテン師 2008/8/29(金) 22:03 追記

【3182】Re:『曹操 魏の武帝』
 R・F  - 2008/8/27(水) 20:46 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん
いつも迅速なレスをありがとうございます。

>袁紹の年齢についてです。
>私がよくアクセスするブログで最近、石井仁/著『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)について書かれた記事がありました。
>(今、「曹操 魏の武帝」と検索すると結構、上位に来るブログです)
>そのブログ記事で『曹操 魏の武帝』における曹操と袁紹の年齢差の記述について触れられていました。
>それによると『曹操 魏の武帝』では「経歴からいって、袁紹の方が十歳ちかく年長だったはずであり」という記述があるようですね。
>私自身、『曹操 魏の武帝』を読んだことなく手元にもないんですが、その文の前後関係やさらに文献を辿れる等は私からは不明です。

資料の提示ありがとうございます。石井仁/著『曹操 魏の武帝』ですね。図書館にでも行ったときに見てみることにします。

それと、私が「袁紹が曹操より年下」と考えた理由を記させていただきます。
私が参考にしたのは、『三国志』監修/松枝茂夫・立間祥介、全五巻。
第2巻「覇者の行動学」の袁紹の項です。

二公愛之、幼使為郎、弱冠除僕陽長、有清名。
遭母喪、服境(土ヘンなし)、又追行父服、家櫨(木ヘンなし、マダレ付)六年。
              (魏書・袁紹伝注)
本書の訳:(一部漢字変換できなかった原文をご容赦ください)
袁紹は二人の叔父に目をかけられて育った。まだ十代で近習として宮中にあがり、二十歳(弱冠を「二十歳」と意訳しています)で僕陽の県知事に就任して、優れた人物との評判を得た。
やがて母に死なれ、職を退いて礼の規定通り三年間の喪に服した、それが終わるとさかのぼって父の喪に服し、あわせて六年というもの服喪のための小屋で過ごしたのである。

原文・訳文が面倒なので、以下必要な部分のみを抜粋します。

10代:郎
20歳:僕陽の県知事
当時は霊帝の売官制度もあり、任期は1年だったような気がするのですが。どうでしょう?
21歳(?):母死去
 50ヶ月服喪(このサイトで喪の三年は25ヶ月とありましたので、×2で)
21歳(?)+50ヶ月:以後洛陽で人を避けて(名士とだけ会って)過ごす。
    ※この期間を何年と見るかですが、私は3年〜5年くらいと考えてます。
中常侍・趙忠に目をつけられる。叔父の袁隗に叱責され、大将軍(何進)の要請に応じて出仕。
188年 西園八校尉に就任。

何進が大将軍になったのは、黄巾の乱の年。この184年に出仕したとして、上記の計算では上限で30歳か31歳。
ちなみに、曹操は184年で30歳。

ただ、大将軍の要請とありますが、(後に)大将軍(となった何進)の要請、という可能性もあります。
徐晃の項で(後の)車騎将軍楊奉に仕えたという記述がありますからね。

ということですが。いかが思われますか?

【3184】Re:『曹操 魏の武帝』
ひと言  ペテン師  - 2008/8/27(水) 23:02 -

引用なし
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   ▼R・Fさん:
>▼清岡美津夫さん
>いつも迅速なレスをありがとうございます。
>
>>袁紹の年齢についてです。
>>私がよくアクセスするブログで最近、石井仁/著『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)について書かれた記事がありました。
>>(今、「曹操 魏の武帝」と検索すると結構、上位に来るブログです)
>>そのブログ記事で『曹操 魏の武帝』における曹操と袁紹の年齢差の記述について触れられていました。
>>それによると『曹操 魏の武帝』では「経歴からいって、袁紹の方が十歳ちかく年長だったはずであり」という記述があるようですね。
>>私自身、『曹操 魏の武帝』を読んだことなく手元にもないんですが、その文の前後関係やさらに文献を辿れる等は私からは不明です。
>
>資料の提示ありがとうございます。石井仁/著『曹操 魏の武帝』ですね。図書館にでも行ったときに見てみることにします。
>
>それと、私が「袁紹が曹操より年下」と考えた理由を記させていただきます。
>私が参考にしたのは、『三国志』監修/松枝茂夫・立間祥介、全五巻。
>第2巻「覇者の行動学」の袁紹の項です。
>
>二公愛之、幼使為郎、弱冠除僕陽長、有清名。
>遭母喪、服境(土ヘンなし)、又追行父服、家櫨(木ヘンなし、マダレ付)六年。
>              (魏書・袁紹伝注)
>本書の訳:(一部漢字変換できなかった原文をご容赦ください)
>袁紹は二人の叔父に目をかけられて育った。まだ十代で近習として宮中にあがり、二十歳(弱冠を「二十歳」と意訳しています)で僕陽の県知事に就任して、優れた人物との評判を得た。
>やがて母に死なれ、職を退いて礼の規定通り三年間の喪に服した、それが終わるとさかのぼって父の喪に服し、あわせて六年というもの服喪のための小屋で過ごしたのである。
>
>原文・訳文が面倒なので、以下必要な部分のみを抜粋します。
>
>10代:郎
>20歳:僕陽の県知事
>当時は霊帝の売官制度もあり、任期は1年だったような気がするのですが。どうでしょう?
>21歳(?):母死去
> 50ヶ月服喪(このサイトで喪の三年は25ヶ月とありましたので、×2で)
>21歳(?)+50ヶ月:以後洛陽で人を避けて(名士とだけ会って)過ごす。
>    ※この期間を何年と見るかですが、私は3年〜5年くらいと考えてます。
>中常侍・趙忠に目をつけられる。叔父の袁隗に叱責され、大将軍(何進)の要請に応じて出仕。
>188年 西園八校尉に就任。
>
>何進が大将軍になったのは、黄巾の乱の年。この184年に出仕したとして、上記の計算では上限で30歳か31歳。
>ちなみに、曹操は184年で30歳。
>
>ただ、大将軍の要請とありますが、(後に)大将軍(となった何進)の要請、という可能性もあります。
>徐晃の項で(後の)車騎将軍楊奉に仕えたという記述がありますからね。
>
>ということですが。いかが思われますか?


えっと10歳年長説は当方も賛成なんです。

袁紹の子供の袁譚と袁煕が190年の時点で成長(成人年齢にたしている)ようなので…

成人年齢に達しているとすると兄弟で18〜16歳くらいでしょうか
ここから
袁紹は二十歳で濮陽の長となり父母の喪で6年、その後洛陽に隠れ住んだのですからコレより以前に結婚しているとも思えないので、喪が明けてからの結婚だと思います。

単純に190年ー袁譚18歳+1(数え年齢)ー1(妊娠期間)−26歳=146年

この146年の年号に注目
本初元年となっています。
袁紹の字と符合します。
本初の年号はこの一年しかなく袁紹伝の『英雄記』いわく「当時の年号が初平、袁紹の字は本初であり、袁紹自身、年号と字が符合していた為、必ず自分が動乱を平定できると信じていた」と言うくだりがあります。
そこで当方は146年を生年としております。


190年は初平元年で146年は本初元年というだけの符合ですが、この年を袁紹の年齢とすると

146年誕生
165年濮陽の長
166年お勤め終了&洛陽に住む&喪服期間開始
167年喪
168年喪
169年喪
170年喪
171年喪
172喪服終了&その後結婚


190年袁紹の子供2人が成人している


…と考えております。
これなら喪に服しても190年までに余裕で子供が成人することが可能です。


曹操と同年ならば

155年+20歳ー1(数え分)=174年
この時点で残り16年です。
袁紹の子供2人の成人年齢には達することはないです。


ということで10歳は年齢が離れていると思ってます。

ちなみに張バクはこの袁紹よりも年齢が上となっています。

【3185】Re:『曹操 魏の武帝』
   - 2008/8/28(木) 22:45 -

引用なし
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    二度目になりますが多少知る所なので投稿いたしました。
 袁紹が生まれた年は石井氏や上記の人が言うように曹操よりも年上だろうと思われます。東北大の大学院生の人が,袁氏の論文を書かれています。そこでも石井氏や上記の方の根拠の他,いくつか史料をあげて,やはり本初元年が生まれと論じていました。どうも146年生まれというのは,妥当なようです。

 喪については,足掛け三年のため,今日でいうところの六年とは異なりますから,丸々六年ではありませんが,その後も官途には就いていないようです。
 また先に書き込まれた方で大將軍の事に関する史料の読み方についての疑問がありましたが,その史料は確実に大將軍の辟召であり,184年乃至185年頃の応辟と考えられます。これは制度的な側面から断定できることです。
 なお20年近く官に就かなかったことになりますが,この頃の常識では別に珍しいことではありません。理由はそれぞれの家の問題などもあって異なりますが,40,50を超えてから出仕することは当り前の事でした。

 倉亭の戦いは「戦い」というほどの事はありません。『魏志』の武帝紀に

 六年夏四月,揚兵河上,撃紹倉亭軍,破之。紹帰,復收散卒,攻定諸叛郡県。

とあるだけです。文学が専門ではないので,断言できませんが,意図的に読み間違えれば,これを一つの文として理解して,この倉亭で敗れた後に袁紹が冀州に帰ったと読めます。しかし普通,これは引いた史料で最初に「。」をつけたところが文の切れ目で,前後の話はまったく別です。
 古代史の潜在的な問題点ですが,史料が少ないために何とも言えませんが,倉亭は東郡にあるので,袁紹側からすれば,黄河を渡った先の駐屯地になり,曹操が防衛線を黄河にまで引き戻したと考えるのが妥当であろうと思われます。

 後漢の研究は狩野直禎,東晋次,渡邉義浩,制度史で冨田健之の四名ほどしか専門的におこなっていませんが,将来の研究者候補では,早稲田や東北,九州大の院生で後漢の研究をしている人がでてきたので,まだ一般に浸透していない部分で活発な研究が行われているようです。
 袁紹で言えば,専門のテーマというわけではないのでしょうが東北大の人が相当研究しており,石井氏の弟子に当る人ですから,三國志学会等で石井氏等に質問すれば,一般に浸透していない情報が多く得られるのではないでしょうか。

【3188】Re:『曹操 魏の武帝』
追記  ペテン師  - 2008/8/29(金) 22:03 -

引用なし
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   袁紹の字なの本初が元年しかないのもあるのですが、何で本初とつけたのか一度考えたことがあります。
関係ないのかもしれないけど、本初元年って袁家の袁湯が司空になった年でもあるので、その慶賀あやかって付けたのかなって思ったりもしてました。

特に袁安の息子の袁敞が息子の不祥事で免官となって自殺した後だと思われるので尚更じゃないのかと思うのです。

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