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▼清岡美津夫さん
いつも迅速なレスをありがとうございます。
>袁紹の年齢についてです。
>私がよくアクセスするブログで最近、石井仁/著『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)について書かれた記事がありました。
>(今、「曹操 魏の武帝」と検索すると結構、上位に来るブログです)
>そのブログ記事で『曹操 魏の武帝』における曹操と袁紹の年齢差の記述について触れられていました。
>それによると『曹操 魏の武帝』では「経歴からいって、袁紹の方が十歳ちかく年長だったはずであり」という記述があるようですね。
>私自身、『曹操 魏の武帝』を読んだことなく手元にもないんですが、その文の前後関係やさらに文献を辿れる等は私からは不明です。
資料の提示ありがとうございます。石井仁/著『曹操 魏の武帝』ですね。図書館にでも行ったときに見てみることにします。
それと、私が「袁紹が曹操より年下」と考えた理由を記させていただきます。
私が参考にしたのは、『三国志』監修/松枝茂夫・立間祥介、全五巻。
第2巻「覇者の行動学」の袁紹の項です。
二公愛之、幼使為郎、弱冠除僕陽長、有清名。
遭母喪、服境(土ヘンなし)、又追行父服、家櫨(木ヘンなし、マダレ付)六年。
(魏書・袁紹伝注)
本書の訳:(一部漢字変換できなかった原文をご容赦ください)
袁紹は二人の叔父に目をかけられて育った。まだ十代で近習として宮中にあがり、二十歳(弱冠を「二十歳」と意訳しています)で僕陽の県知事に就任して、優れた人物との評判を得た。
やがて母に死なれ、職を退いて礼の規定通り三年間の喪に服した、それが終わるとさかのぼって父の喪に服し、あわせて六年というもの服喪のための小屋で過ごしたのである。
原文・訳文が面倒なので、以下必要な部分のみを抜粋します。
10代:郎
20歳:僕陽の県知事
当時は霊帝の売官制度もあり、任期は1年だったような気がするのですが。どうでしょう?
21歳(?):母死去
50ヶ月服喪(このサイトで喪の三年は25ヶ月とありましたので、×2で)
21歳(?)+50ヶ月:以後洛陽で人を避けて(名士とだけ会って)過ごす。
※この期間を何年と見るかですが、私は3年〜5年くらいと考えてます。
中常侍・趙忠に目をつけられる。叔父の袁隗に叱責され、大将軍(何進)の要請に応じて出仕。
188年 西園八校尉に就任。
何進が大将軍になったのは、黄巾の乱の年。この184年に出仕したとして、上記の計算では上限で30歳か31歳。
ちなみに、曹操は184年で30歳。
ただ、大将軍の要請とありますが、(後に)大将軍(となった何進)の要請、という可能性もあります。
徐晃の項で(後の)車騎将軍楊奉に仕えたという記述がありますからね。
ということですが。いかが思われますか?
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