三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3712】Re:豪族の動員力・・・
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/12/18(日) 20:21 -

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   こんばんわ。
一年半も前の書き込みで、それにレスしてもツリー主に気付かれず、あまり意味がないでしょうが、見かけたので紹介しておきます。
下記の論文のP.14の注で「(8) 豪族の概念については問題が多い。ここでは、一定の族的結合を持ち社会的に影響力を持つ勢力として考えておきたい。また官僚を輩出することのみをもって、豪族と規定することはできないと考える。」とありました。
まず「豪族」の定義付けか別の言葉に換える必要があるようです。

西川 利文「胡広伝覚書──党錮事件理解の前提として──」(『文学部論集』第82号 (199803) pp.1-17 佛教大学 )
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006473004


▼陳ぐんさん:
>陸伯議さん、はじめまして。
>陳ぐんと申します。
>私も学校では幾度となく同じ様な目にあっております。
>
>本題ですがこのころの豪族というものはどれほど
>の影響力、動員力を持っていたのでしょうか。
>後にセッキョとか言う豪族が唐軍を大破してたりしていますが
>後漢の豪族というのはこれほどまでに強力なものだったのでしょうか。
>呉が豪族の連合体であったということは聞いていますが
>一人ひとりの豪族が持つ私兵の数はいったいどれほどのものだったの
>かもよくわかりません。
>どなたかお願いします。
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【3711】Re:呂拠が孫覇派な理由
解決  叔嗣  - 2011/11/21(月) 22:29 -

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   お騒がせしました。解決しました。
孫和伝に書いてありました。
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【3710】呂拠が孫覇派な理由
 叔嗣  - 2011/11/21(月) 21:40 -

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   お久しぶりです。
最近になって、三国志の自己解釈が進んでいます。

そこで、三国志最大の謎の一つ二宮の変について質問です。

孫ぽこさんのサイトやウィキにて孫覇派の人物の中に
呂拠が入っているのですが、何故入っているのか理由がわかりません。

孫覇派とされている理由は何なんでしょうか?
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【3709】Re:適長稱伯、庶長稱孟
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/11/16(水) 1:42 -

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   こんばんわ
答えでも何でもないんで、アイコンは「雑談」で。

▼ペテン師さん:
>一般的に知られている伯仲叔季幼の文字以外で
>添え字だと思われる文・公・景・孔・子
>庶子の孟

 伯仲叔季については『三国志』等の史書に具体例が散見され特に疑問に思わないのですが、「孟」については何か根拠や具体例があるんでしょうかね。
 ネット上で論拠を明示されないままよく見掛けましたので、この時代にも当てはまるのか等も含め、ふと気になりました。

…と気になったままで終えない気分でしたので、まずこの掲示板でもたびたび出ている『[#?太平御覧]』を当たって、巻三百六十三 人事部四 字を見てみました。
 その項目に挙がっている文献を辿ると、紀元79年に作られた班固『白虎通義』姓名篇の下記の記述に行き当たりました。

 人所以有字何?冠徳明功、敬成人也。故『禮士冠經』曰:「賓北面、字之曰伯某甫。」又曰:「冠而字之。」敬其名也。所以五十乃稱伯仲者、五十知天命、思慮定也、能順四時長幼之序、故以伯仲號之。『禮檀弓』曰:「幼名、冠字、五十乃稱伯仲。」『論語』曰:「五十而知天命。」
 稱號所以有四何?法四時用事先後、長幼兄弟之象也、故以時長幼號曰伯、仲、叔、季也。伯者、長也、伯者子最長、迫近父也。仲者、中也。叔者、少也。季者、幼也。適長稱伯、伯禽是也。庶長稱孟、以魯大夫孟氏。

 ここに「伯仲叔季」については書かれており、嫡子の長を伯と称し、庶子の長を孟と称することが書かれてますね。
 もうちょっと踏み込んで、「孟」の具体例があるか探して、どれぐらいこれが適応されているか見ていきたいところです。

 『白虎通義』の原文を探す過程で下記のサイトを見掛けました。この「書簡」のところに、「中国史覚え書き? 字(あざな)」というページがあって、字についてあれこれ考察されております。こんな感じで自力で調べていくと楽しいかもしれません。

・風の名前
http://bamboocentury.gozaru.jp/

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【3708】久しぶりに投稿
♪  ペテン師  - 2011/11/14(月) 1:24 -

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   三国志の人物の名前について調べています


一般的に知られている伯仲叔季幼の文字以外で
添え字だと思われる文・公・景・孔・子
庶子の孟


など色々な文字がありますが、呼んでいるとどうも添え字の中でも貧富・正妻・側室・側妾など母方の出自により異なっているのではないかと思いだしております。

そこで名前の付け方などについて書かれている書籍があればぜひ教えてください
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【3707】深謝
感謝♪  中彎  - 2011/10/22(土) 8:56 -

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   お礼が遅れましたことをお詫び致します。
先の独り言みたいな書き込みにまで、ご丁寧なご返事をいただき、痛み入ります。
清岡さまの博識と親切に、あらためて感服致しました。
あるいは偶然に武装が、現在清岡さまのご関心分野でしたでしょうか。
とても勉強になりました。ありがとうございました。

『流矢』については、以前読んだことがあったのをご指摘で思い出しました。
高島俊男氏著『三国志 きらめく群像』(ちくま文庫)の、龐統の箇所です。
その後どこだか失念しましたが、ネット上の議論で、「必ずしも大量の矢の群れだけでなく、目標を逸れた矢の用途もある」という発言をみた気もします。
ともかくそうなると、周瑜は一本だけでなく、複数の矢を受けたのかも知れませんね。

鎧についても、とても勉強になりました。当時の鎧が多数の札を綴じたものだとは、
篠田耕一氏の『三国志軍事ガイド』(新紀元社)などで知りましたが、
何となくこれまでもっと自由に折りたためるものと考えていましたので、胴部の大半が上下方向に固定されていたとは意外でした。

また機会がありましたらぜひご教示お願い致します。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>さすがに周瑜の死因まではすぐに考えが及びませんが、それ以外ではあれば、お役に立てそうな分は返信致しますね。
>
>
>▼中彎さん:
>>「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
>>右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
>>つまり右腕を挙げていたと想像されます。
>>右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
>
>周瑜は将士ですので、指麾に使う旄を持っていたかもしれませんね。
>あと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にあるこの「瑜親跨馬擽陳」に似た表現を含むのに、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「身跨馬櫟陳、手撃急鼓」という表現がありますので、鼓を持っていたかもしれません。
>
>それと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にある「會流矢中右脅」の「流矢」についてですが、何年か前に個人サイトのコンテンツかコミュニティかで、「流矢」の意味を日本語のそれと同じ意味ではないのではないかといった話が出ていました。
>つまり、「流矢」を「流れ矢」、つまり目標から「逸れた矢」としての意味ではないという話です。
>当時は単になるほどな、と思ったぐらいで特に論拠等に当たりませんでした。
>今、『三国志』およびその注に当たると、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「弓弩並發、流矢雨集、」(弓と弩が並び発し、流矢が多く集まり、)という表現があって、少なくともここでは少量の「逸れた矢」といった意味でなく大量の「流れる矢」の意味として出ていますね。
>
>>矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
>>筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
>>当時呉にはなかったのでしょうか。
>
>鎧に関しては下記の「奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ」にある小林謙一「東アジアにおける武器・武具の比較研究」(平成16年度〜平成19年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書(課題番号16520478)、2008年7月)のP.14からの「IV 中国の甲冑」が参考になるかと思います。それを読むと筒袖鎧には程遠いように思えますね。
>
>・XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
>http://repository.nabunken.go.jp/
>
>・東アジアにおける武器・武具の比較研究 - XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
>http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1199
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【3706】Re:自己紹介
 鳳頼英知 WEB  - 2011/10/20(木) 4:25 -

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   三国志ファンの方々
はじめまして
鳳頼英知と申します

僕は三国志と出会ってからずっと呉のファンで
9月から無料WEB連載漫画「美周郎」の連載を
スタートいたしました!

歴史漫画と言うよりは少年漫画の冒険物みたいな感じですが
良かったら読んでやって下さい

壮大な音楽に乗せたプロモーション動画は必見です!

下記URLで無料で公開しています

http://bishuro.org/

動画はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=GfraWbwc6a4

よろしくお願いします
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【3705】周瑜の漫画描いてます
 鳳頼英知 WEB  - 2011/10/16(日) 2:44 -

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   三国志ファンの方々
はじめまして
鳳頼英知と申します

僕は三国志と出会ってからずっと呉のファンで
9月から無料WEB連載漫画「美周郎」の連載を
スタートいたしました!

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【3704】Re:矢傷が死因となった可能性
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/15(土) 0:19 -

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   こんばんわ。

さすがに周瑜の死因まではすぐに考えが及びませんが、それ以外ではあれば、お役に立てそうな分は返信致しますね。


▼中彎さん:
>「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
>右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
>つまり右腕を挙げていたと想像されます。
>右手で掲げていたのは、剣でしょうか。

周瑜は将士ですので、指麾に使う旄を持っていたかもしれませんね。
あと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にあるこの「瑜親跨馬擽陳」に似た表現を含むのに、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「身跨馬櫟陳、手撃急鼓」という表現がありますので、鼓を持っていたかもしれません。

それと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にある「會流矢中右脅」の「流矢」についてですが、何年か前に個人サイトのコンテンツかコミュニティかで、「流矢」の意味を日本語のそれと同じ意味ではないのではないかといった話が出ていました。
つまり、「流矢」を「流れ矢」、つまり目標から「逸れた矢」としての意味ではないという話です。
当時は単になるほどな、と思ったぐらいで特に論拠等に当たりませんでした。
今、『三国志』およびその注に当たると、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「弓弩並發、流矢雨集、」(弓と弩が並び発し、流矢が多く集まり、)という表現があって、少なくともここでは少量の「逸れた矢」といった意味でなく大量の「流れる矢」の意味として出ていますね。

>矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
>筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
>当時呉にはなかったのでしょうか。

鎧に関しては下記の「奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ」にある小林謙一「東アジアにおける武器・武具の比較研究」(平成16年度〜平成19年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書(課題番号16520478)、2008年7月)のP.14からの「IV 中国の甲冑」が参考になるかと思います。それを読むと筒袖鎧には程遠いように思えますね。

・XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
http://repository.nabunken.go.jp/

・東アジアにおける武器・武具の比較研究 - XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1199
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【3703】Re:「三国演義」は晋書に影響を与えたのか...
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/14(金) 23:02 -

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   こんばんわ。

すっかり返信する機を逸してしまいましたが、めげずに初見で感じたことを書き記しておきます。

具体的な記述等の何の予備知識もなく、それらを知れば、『晋書』から講談、『三国演義』に情報が流れていると考えるのが自然と思うのですが、それを敢えて逆に考える理由がよく理解できませんでした。


▼R・Fさん:
>▼清岡美津夫さん:
>
>レスをありがとうございます。
>表現が舌足らずで申し訳ありません。
>
>『三国演義』の元になった講釈が、唐の時代にはすでに存在していて、それが晋書に影響を与えたのではないかということです。
>
>宋代には「説三分」という講談があったという記録が雑記の中にあるそうです。
>内容については、不明ですが、個人的に元代に成立した「三国志平話」のタネではなかったかと想像しています。
>
>唐代には、講談が庶民の娯楽として成立していたという話を聞きますので、『三国志』を元にしたあ講談もあったのではないか、ということです。
>
>なぜ、そう思ったかと云うと。
>
>「晋書 高祖宣帝懿紀」
>http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html
>
>王導から宣帝の行状を聞いた(東晋の)明帝は顔を寝台に伏して言った。「もしあなたの言うとおりなら、晋の国祚も長くはあるまい」。宣帝の猜疑心と残忍さとを辿るに、まさしく狼顧の相がさし示すとおりのものであった。という言葉。
>
>また、最後の(唐の太宗李世民による)講評が、余りにも酷かったからです。
>ここまで貶さなくとも、と思えるほど酷評しています。
>
>その理由を『三国演義』というか、世間に流布していたかもしれない講談にあるのではないかと想像したわけです。
>
>自分でもかなり無理のある論理とは思いますが、李世民がそこまで酷評したこと等が不思議だったので質問させていただきました。
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【3702】矢傷が死因となった可能性
感謝♪  中彎  - 2011/10/14(金) 6:58 -

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   清岡様

質問者の中彎です。

お礼が遅れました。書き込んですぐに、とても詳しいご回答をいただき、
感激しております。ありがとうございました。

「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
つまり右腕を挙げていたと想像されます。
右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
当時呉にはなかったのでしょうか。

周瑜の受傷部位などと言う、些末なことに関心を持った理由は、
もしかしたらこれが彼の死因になったかもしれない、と想像したからです。

『三国志』周瑜伝には、孫策と同じ年と書かれており、
だとすれば生年は、西暦175年でしょう。
同じく周瑜伝には、死亡時36歳、とありますので、
西暦210年に死去したことになります。

『赤壁』の決着が『三国志』武帝紀をみると陰暦で西暦208年12月のようで、
その後江陵攻防に移るのですが、
呉主伝ではこれが1年あまり続いたように書かれています。

はじめは夷陵の攻防があったりして、そのあとのことですから、
周瑜受傷の時期は、江陵戦の終結近くでしょう。

すると、受傷から死去まで、長く見ても1年程度と見積もられるのではないでしょうか。
その間周瑜は「劉備に宮室」の謀略を提案したりはしますが、たぶん陣頭には立たず、
久しぶりに戦場へ出ようとして、ほどなく病死したように見えます。

矢傷自体からは生き延びたが、体の奥に化膿巣が残り、
後にそこから全身に波及して、というようなストーリーを考えてしまいます。
正面から矢を受けるよりも体側部の方が、即死を免れるチャンスが高い気がします。

言いたい放題の長文、失礼致しました。▼清岡美津夫さん:
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【3701】Re:「右脅」は「左鎖骨」?
多分…  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/10(月) 18:09 -

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   初めまして、清岡です。

それは初耳でしたので、何刷等を考えず、一応、手元にあるハードカバーの『世界古典文学全集24 三国志』(筑摩書房)、文庫の『正史 三国志』(筑摩書房)で確認すると、おっしゃるとおり、「左の鎖骨」となっていますね。

それに対して原文の『三国志』(中華書局)、『三国志集解』(藝文印書館)で確認すると、おっしゃるとおり、「右脅」となっていますね。
念のため、『太平御覧』で確認すると、卷三百七十一 人事部十二 脅の項目に件の箇所が引用されており、やはり「右脅」となっていました。

左右の違いはともかく、「脅」を『CD-ROM版 字通』で引いてみると、訓義の「1」が「わき、わきばら、あばら、かたわら」となっており、さらに『説文』の「両膀なり」を引き「両脇の意とする」と書かれてあり、特に「肩」という意味はありませんでした。

まさかと思い、『三国演義』(毛本、電子文献)を見ると、「第五十一回:曹仁大戰東呉兵、孔明一氣周公瑾」に「周瑜急勒馬回時、被一弩箭、正射中左肋、翻身落馬。」とあり、左右の違いはありますが、「左肋」とあばらを意味する言葉が出ています。

もしかして版によっては「左の鎖骨」を意味する言葉になっているかもしれませんが、通行する『三国志』では「右脅」で良いと思います。訳す人の所へ渡った文が違ったものになっていたか、渡った時に情報損失(原文の字が潰れていた等)があったんでしょうかね。『三国志』の訳は他にも徳間書店のものがあるそうですので、念のためにそれで確認するとよいかもしれません。但し私はそれに『三国志』巻五十四呉書周瑜伝の訳が載っているかどうか未確認です、すみません。


あと当時と今ではおっしゃるとおり左右の概念が違うという可能性がありますね。例えば、主体視点の左右か、主体と向かい合った客体視点の左右かと言うことですね。
時代の近い『礼記』(とは言っても成立が数百年遡りますが)を読む限り、左右の概念は今と同じだと存じます。そこには前後左右以外にも東西南北が記されていて、矛盾無く読めますので。

▼中彎さん:
>はじめまして。こちらでは中彎と名乗ることに致します。
>中年の三國志ファンです。
>
>正史とちくま訳との間の違いで気になったことがあり、
>詳しい方にお教えいただきたく、思い切って投稿致します。
>
>『三國志』周瑜伝で、「赤壁」のあとの対曹仁江陵攻防戦の場面、
>周瑜は負傷しますが、その様子について、
>
>中央研究院 漢籍電子文獻 によれば、
>
>會流矢中右脅
>
>となっており、対してちくま学芸文庫の訳では、
>
>流れ矢が左の鎖骨に命中し、
>
>とされています。
>
>左右が逆のように思うのですが、これで正しいのでしょうか。
>それとも「左右」について、今と違う用法があったのでしょうか。
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【3700】「右脅」は「左鎖骨」?
教えて  中彎  - 2011/10/10(月) 13:56 -

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   はじめまして。こちらでは中彎と名乗ることに致します。
中年の三國志ファンです。

正史とちくま訳との間の違いで気になったことがあり、
詳しい方にお教えいただきたく、思い切って投稿致します。

『三國志』周瑜伝で、「赤壁」のあとの対曹仁江陵攻防戦の場面、
周瑜は負傷しますが、その様子について、

中央研究院 漢籍電子文獻 によれば、

會流矢中右脅

となっており、対してちくま学芸文庫の訳では、

流れ矢が左の鎖骨に命中し、

とされています。

左右が逆のように思うのですが、これで正しいのでしょうか。
それとも「左右」について、今と違う用法があったのでしょうか。
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【3699】Re:2005年以降の三国志関連書籍
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/9/19(月) 17:33 -

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   初めまして。

全部が2005年以降って訳じゃないですが、一度、三国志関連に触れられたのであれば、東洋史関連であれば、福原啓郎/著『西晉の武帝 司馬炎』(白帝社1995年)、中国文学関連であれば、金文京/著『三国志演義の世界 増補版』(東方書店2010年)がおすすめでしょうかね。

・西晉の武帝 司馬炎
http://www.hakuteisha.co.jp/books/232-4.html

・国内書 三国志演義の世界 増補版【中国・本の情報館】東方書店
http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=4497210098&bookType=jp


▼もう1度三国志さん:
>2005年以降の三国志関連の書籍(ジャンル問わず)でおすすめの物を教えて頂けないでしょうか?
>
>初めまして。
>いきなり変なお願いをして申し訳ありません。
>私は2005年くらいまで三国志にはまっていたのですが、私生活が忙しくなり徐々に遠ざかってしまい、それ以来ほぼ三国志に触れずに生活してきました。
>
>しかし、最近、書店で三国志の文字を見て、久しぶりに三国志にどっぷり浸かりたくなりました。
>昔、買った本を実家から送ってもらい、まずはそれを読みなおしているのですが、もちろん新しい本も読んでみたいです。
>
>そこで、皆さんに2005年以降に発売された三国志関連の書籍でおすすめの物があれば是非教えて頂きたいのです。
>ジャンルは一切問いません。漫画から専門書までどんなものでもお願いしたいです。
>
>どうか、私に新しい三国志との出会いのチャンスを提供していただけないでしょうか。
>よろしくお願いいたします。
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【3698】Re:『三国志研究要覧』復刊
 黄虎洞  - 2011/9/14(水) 20:23 -

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   9月に復刊されました。
復刊ですので、全く形態も書式も初版と同じです。
執筆者の肩書き等も当時のままです。
「一切何も手を加えない」と言うのが、復刊の条件でした。
唯一異なるのは値段でしょうか。
初版は1990年までの文献を集めましたので、
その後の20年間の新しい資料は含みません。

小生も老人になりましたので、
誰か新資料を追加した「増補云々」を出してくれると嬉しいのですが、
資料を集めて追加しようなどと言う、暇人の若手も周囲にはいませんので、
増補版は、気が向いたときに出せるかもしれません。
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【3697】Re:青龍とは?
 通りすがり  - 2011/8/27(土) 19:28 -

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   私も前から、この記事が気になっていたのですが、
皆さんのおっしゃる通り、この頃、井戸の中に龍が現れたという記事が多く見られます。一字一字辞書を引き直していくと、『漢語大詞典』の「井」の項目に、漢代の墓から出土した陶製の井戸の図があります。
この図から、当時の井戸には屋根があったことが分かります(もちろん、全てではないでしょうが)。

次に、日本史で井戸に龍が現れた事件があったか考えましたが、史書を読み込んでいるわけではないので、分かりません。
しかし、ネットを検索すると、緇井鶏子(しい けいこ)さんという方のブログに大阪の四天王寺の龍の井戸について興味深いことが書かれていました。

>水屋の天井に龍が描かれていて その姿が井戸の底に映って見えるそうです 
>井戸の中に龍の像を入れてもだめで 天井画を水面に映す 
>という 

これは何が起源なんでしょうか?
あくまで想像ですが、当時も井戸の屋根に細工をして龍の絵を水面に写していた可能性もあるのかなと思いました。
あまり、辞書に載っている図はあまりよく見ないこともありますが、やはり情報として重要ですね。
参考にならないかもしれませんが、とりあえず投稿しておきます。
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【3696】2005年以降の三国志関連書籍
教えて  もう1度三国志  - 2011/8/27(土) 19:20 -

引用なし
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   2005年以降の三国志関連の書籍(ジャンル問わず)でおすすめの物を教えて頂けないでしょうか?

初めまして。
いきなり変なお願いをして申し訳ありません。
私は2005年くらいまで三国志にはまっていたのですが、私生活が忙しくなり徐々に遠ざかってしまい、それ以来ほぼ三国志に触れずに生活してきました。

しかし、最近、書店で三国志の文字を見て、久しぶりに三国志にどっぷり浸かりたくなりました。
昔、買った本を実家から送ってもらい、まずはそれを読みなおしているのですが、もちろん新しい本も読んでみたいです。

そこで、皆さんに2005年以降に発売された三国志関連の書籍でおすすめの物があれば是非教えて頂きたいのです。
ジャンルは一切問いません。漫画から専門書までどんなものでもお願いしたいです。

どうか、私に新しい三国志との出会いのチャンスを提供していただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
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【3695】Re:呂布って一体何歳くらいだと思いますか
 通りすがり  - 2011/8/26(金) 16:21 -

引用なし
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   紅砂さんへ

私も想像ですが、呂布の享年は40代、或いは紅砂さんがおっしゃるように、50代かと考えています。確たる根拠はありませんけど。

以前はもっと若いのかと思っていたので、筑摩の正史三国志などを読んでみて意外でした。捕まったときには、長い籠城戦のために疲労でやつれていたでしょうし、無精ひげも生やしていたでしょう。イメージより老けた感じだったのではなかったかと想像します。でも、曹操に自分を売り込む気力は残っていました。生への執着と言うと、良い意味にも悪い意味にもとれますが、自分の人生はまだ終わっていない。また一旗揚げるんだ!という粘り強さが凄いですよね。曹操は生かそうかどうか 少し迷ったぐらいです。
歴史にifはないと言いますが、呂布が生かされていたらどうなっていたことでしょうか。
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【3694】Re:呂布って一体何歳くらいだと思いますか
多分…  通りすがり  - 2011/8/26(金) 15:35 -

引用なし
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   清水さんへ

熹平三年は、西暦174年ですね。

呂布の生年は、正確には分かりませんが、延熹4年(161)以前ではないかと私は勝手に考えています。これは劉備の生年です。

なぜなら、『三国志』呂布伝の注に、呂布が劉備のことを「弟と呼んでいた」とありますし、呂布自身が、第三者に向かって「劉備は私の弟」と発言している記述があるからです。死の真際には劉備のことを「児」と罵っていますが、これは主に年下の相手に使う罵語の「竪子」(小僧)と同義です。

また、張飛伝に「関羽が数歳年上だったので、張飛は実の兄に対するように接した」とあるように、義理の兄弟は、当時もやはり年齢の上下で兄か弟かを決めていたと考えられます。

よって、呂布は劉備より年上ではないかと推測されます。
ただ、どれくらい年が離れていたかは分かりません。
劉備の生年は、延熹4年(161)です。
したがって、呂布が生まれたのは、少なくとも劉備の生年である延熹4年(161)以前ではないかと考えられます。

以上から推測しますと、初平二年(191)ですと、呂布は大体30歳過ぎぐらいですね。また、建安三年(199)に刑死していますので、享年は40歳前後だと推測します。

これは、呂布が当時の社会の慣習(長幼の序)に従っていたことを前提にしています。董卓と義理の親子となっていますので、一応、この慣習は守っていたのではないかと思います。熹平三年(174)の方だと、享年は20代半ばですので、そちらの方がより劇的かもしれません。


メモ

曹操(155〜220)
呂布(161以前?〜199)
劉備(161〜223)
 
※呂布が曹操より年上か、同年か、年下かは分かりません。
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【3693】Re:「三国演義」は晋書に影響を与えたのか...
 R・F  - 2011/8/7(日) 23:00 -

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   ▼清岡美津夫さん:

レスをありがとうございます。
表現が舌足らずで申し訳ありません。

『三国演義』の元になった講釈が、唐の時代にはすでに存在していて、それが晋書に影響を与えたのではないかということです。

宋代には「説三分」という講談があったという記録が雑記の中にあるそうです。
内容については、不明ですが、個人的に元代に成立した「三国志平話」のタネではなかったかと想像しています。

唐代には、講談が庶民の娯楽として成立していたという話を聞きますので、『三国志』を元にしたあ講談もあったのではないか、ということです。

なぜ、そう思ったかと云うと。

「晋書 高祖宣帝懿紀」
http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html

王導から宣帝の行状を聞いた(東晋の)明帝は顔を寝台に伏して言った。「もしあなたの言うとおりなら、晋の国祚も長くはあるまい」。宣帝の猜疑心と残忍さとを辿るに、まさしく狼顧の相がさし示すとおりのものであった。という言葉。

また、最後の(唐の太宗李世民による)講評が、余りにも酷かったからです。
ここまで貶さなくとも、と思えるほど酷評しています。

その理由を『三国演義』というか、世間に流布していたかもしれない講談にあるのではないかと想像したわけです。

自分でもかなり無理のある論理とは思いますが、李世民がそこまで酷評したこと等が不思議だったので質問させていただきました。
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