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両頭共身(孫氏からみた三国志39)
060412
<<傅燮の最期(孫氏からみた三国志38)


   中平四年(西暦187年)六月後漢書本紀によると京師の民に男の子が産まれた。ただ生まれただけなら歴史書にのらないんだけど、その男の子はなんと頭を二つ持っていた1)
   それで覚えている人はほとんどいないと思うけど、この頭を二つ持った子は以前の歴史にも残っていて、それは光和七年六月(後漢書本紀)と中平二年(続漢書五行志)。そしてそれを「天下に二人の君主(天子)がいる徴(しるし)だ」と理解した人がいる。それは前の中山相の張純。以前、「皇甫嵩、失脚(孫氏からみた三国志31)」(<<該当部分)で紹介した
   そしてまたまた二つの頭を持つ赤ん坊がうまれて、ついに張純たちは事を起こした。
(※もしかして二つの頭を持つ男の子の話は一回の出来事が時代を経るにしたがい、あたかも複数の出来事のようになったかもしれないけど)

   まず張純たちは徴発されたが給料未払いで不平を持つ烏桓族と手を結んだ。
   かなり前にも書いたんだけど、烏桓(あるいは烏丸と書く)は東胡(族)の一派で鮮卑と習慣がよく似ていて、元々、烏桓山に居たからそういう名前だそうな。(<<前書いたところ
   烏桓とひとことに言ってもこの時代は一丸となっていたわけじゃなくいろんな勢力にわかれていたみたいでそれぞれ大人(リーダーみたいなもの?)がいたようだ。後漢書烏桓伝によると靈帝の時代の初めには(靈帝の時代は西暦167年から始まる。また三国志魏書烏桓伝では「漢末」とのことなので西暦187年の時点でも以下のことは当てはまるとみなす)、幽州上谷郡には難樓っていう烏桓大人がいて、集落は九千あまりたばねていたし、幽州遼西郡には丘力居という大人がいて集落は五千あまりで、二人とも自ら王を名乗っていた。他にも幽州遼東郡には蘇僕延がいて集落は千あまりで峭王を自称し、幽州右北平郡には烏延がいて集落は八百あまりで汗魯王を自称していた2)
   後漢書劉虞伝3)によると張純たちは烏桓大人たちと連盟した(三国志魏書公孫さん4)によると、張純は遼西烏丸の丘力居たちに反乱を誘ったとのこと)

   まずは幽州廣陽郡薊県を攻撃した。

   ちなみにこの薊県はただの県ではなく幽州の州府(やくしょ)があるところ。まず官軍の拠点の一つをねらったんだろう。ここで城郭を焼き、百姓から略奪した。こういった感じでただその拠点を乗っ取るのではなく蛮行をしていた。
   三国志魏書公孫さん4)によるとこの薊県には公孫さんたち幽州突騎三千人がいた。以前、少し触れたけど(<<参照)、たく県の令だった公孫さんは先の涼州の戦いで都督行事の伝(関や津を通過する際の身分証明書)を借り、徴発された幽州の烏桓突騎三千人を率いていた。行きか帰りかわからないがとにかくこの軍は薊県に到達したようだ。
   一方、続けて三国志魏書公孫さん4)によると、張純は将軍を自称し(後に出てくる将軍名と同じ?)、吏(役人)や民から略奪し、右北平、遼西、(遼東?)属国の諸城を攻め、至る所を破壊した。後漢書劉虞伝によると、おそらくその折りに、護烏桓校尉の箕稠(後漢書本紀の公き稠と同一人物?)、右北平太守の劉政、遼東太守の陽終(後漢書本紀の楊終と同一人物?)たちは殺された。
   もう一方の公孫さんの軍は、後漢書公孫さん5)によると対照的に公孫さんは受け持ちのところで張純たちを追討し戦功があり、騎都尉に抜擢された。
   ところが公孫さんの軍の追討で張純の軍は壊滅したというわけではなく、十万あまりにもなっており、軍は肥如(幽州遼西郡)というところに駐屯していた(後漢書劉虞伝)。

   こういった一連の出来事を後漢書本紀にあてはめると、中平四年六月から九月までの期間ということになる。

   このとき、後漢書劉虞伝によると、張舉は「天子」を自称し、張純は「弥天将軍安定王」(弥天将軍で安定国の王?)を自称した。頭を二つ持つ男の子を「天下に二人の君主(天子、皇帝)がいる徴(しるし)だ」と解釈したことはもはや実行に移されていた。
   そして現行の皇帝と同じく、中央に権力をあつめるため、まず州や郡に張舉が漢の代わりにあたると述べる文書を移送した(実害のある近くの郡ならともかくほとんどの州や郡は相手にしないだろうけど)。そして漢の皇帝には天子の位を退くように告げ、それから公卿になり張舉を奉じ迎えるよう、勅命を下した。(この後の皇帝のリアクションは不明)

   後漢書本紀によると、張舉と張純は再び兵をあげ幽州、冀州の二州に侵略した。具体的には後漢書公孫さん伝だと、丘力居(前述、幽州遼西郡の烏桓大人)の軍を行かせ、漁陽郡(幽州)、河間国(冀州)、勃海郡(冀州)に侵略し、さらに平原郡(青州)に入り多く殺人・略奪した。
   一方、後漢書劉虞伝によると、峭王(前述、幽州遼東郡の烏桓大人、蘇僕延)たち歩兵騎兵五万(丘力居軍と含めた数なのか不明)を行かせ、甘陵国(桓帝建和二年、西暦148年以前の清河国、冀州)や平原郡(青州)を攻め破り、官吏や民を殺害した。
   張舉を皇帝(天子)、張純や烏桓大人を王にして独自の国家をつくろうとしているんだろうか。
張純関連
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、矢印の軌跡に根拠はありません


   おそらくこの時期に、二つの侵攻に対抗する官軍側にある人物がいた。
   その人物は劉備(字、玄徳)二十七歳6)三国志蜀書先主伝によると彼はたくたく県出身で漢の景帝の子、
中山靖王の劉勝の子孫だ。中山郡の大商の張世平や蘇雙たちがたく郡にきたとき、劉備を特異な人物と見なし多くの金財を与えたそうだ。
   そんな劉備だけど典略によるとさらに平原郡の劉子平(史書にその他の記述がないため不明)という人が劉備に武勇があることをしっていた。(これまたなぜ劉備に武勇があると思ったのか不明)。そんなおり、張純の反乱があり、青州は詔を受け、従事をやって兵を率い張純をうつようにさせた。
   その従事の軍が平原郡を通過中、劉子平は従事に劉備を推薦した。そのため劉備は従事の軍に付き従うことになる。その後、平野で賊(丘力居の軍か蘇僕延の軍?)に遭遇した。
   そこで劉備は傷を負い、死んだふりをし、賊が去った後、旧知の人が車に劉備を載せ、事なきをえた。

   今回のことは涼州の羌族の反乱が遠因で起こった漢人・張純を筆頭とした烏桓族の侵攻で、さらに他の漢人ではない人種が加わることになる。
   後漢書南匈奴列伝によると7)單于(南匈奴のボス)に羌渠という人が光和二年(西暦179年)に立てられ、その後、今まで書いてきたように中平四年(西暦187年)に前の中山太守(中山相)の張純が反乱を起こし、ついに鮮卑を率い、辺境の郡を侵略した。このとき、靈帝は詔書で南匈奴兵を遣わし幽州刺史(※実際は「幽州牧の劉虞」と書かれている。しかし後漢書劉虞伝など他の記述と照らし合わせるとこの年には劉虞は幽州牧でないため間違いの可能性が高い。もっと言えば「并州刺史の張懿」とした方が自然な流れになる)に配置しこれを討伐させた。單于は騎兵率いる左賢王を遣わせ、幽州に進ませた。国中の人は單于を恐れ、兵を出し終えることはなかった。

   この乱はまだ顛末があるんだけど、一旦、切って、次回は別の乱について。
   いよいよ孫堅(字、文台)の登場。





1)   今回出てくる後漢書本紀の引用元。本文のネタバレあり。
「六月、洛陽民生男、兩頭共身。
漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛、攻殺右北平太守劉政・遼東太守楊終・護烏桓校尉公き稠等。舉(兵)自稱天子、寇幽・冀二州。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)
2)   後漢書烏桓伝のところ。あと三国志魏書烏桓伝もほぼ同じ記述だが違うところが参考になるので続けてあげる。本文のネタバレあり。 「靈帝初、烏桓大人上谷有難樓者、衆九千餘落、遼西有丘力居者、衆五千餘落、皆自稱王;又遼東蘇僕延、衆千餘落、自稱峭王;右北平烏延、衆八百餘落、自稱汗魯王:並勇建而多計策。中平四年、前中山太守張純畔、入丘力居衆中、自號彌天安定王、遂為諸郡烏桓元帥、寇掠青・徐・幽・冀四州。五年、以劉虞為幽州牧、虞購募斬純首、北州乃定。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)
「漢末、遼西烏丸大人丘力居、衆五千餘落、上谷烏丸大人難樓、衆九千餘落、各稱王、而遼東屬國烏丸大人蘇僕延、衆千餘落、自稱峭王、右北平烏丸大人烏延、衆八百餘落、自稱汗魯王、皆有計策勇健。中山太守張純叛入丘力居衆中、自號彌天安定王、為三郡烏丸元帥、寇略青・徐・幽・冀四州、殺略吏民。靈帝末、以劉虞為州牧、募胡斬純首、北州乃定。」(「三國志卷三十 魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十」より)
3)   後漢書劉虞伝の記述。本文のネタバレあり。ちなみに劉虞の伝も公孫さんの伝も後漢書では同じ列伝中にあるが、便宜上、わけてみた。『(中平)四年、純等遂與烏桓大人共連盟、攻薊下、燔燒城郭、虜略百姓、殺護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守陽終等、衆至十餘萬、屯肥如。舉稱「天子、純稱「彌天將軍安定王」、移書州郡、云舉當代漢、告天子避位、敕公卿奉迎。純又使烏桓峭王等歩騎五萬、入青冀二州、攻破清河・平原、殺害吏民。』(「後漢書卷七十三 劉虞公孫さん陶謙列傳第六十三」より)
4)   三国志魏書公孫さん伝のところ。本文のネタバレあり。『光和中、涼州賊起、發幽州突騎三千人、假さん都督行事傳、使將之。軍到薊中、漁陽張純誘遼西烏丸丘力居等叛、劫略薊中、自號將軍、略吏民攻右北平・遼西屬國諸城、所至殘破。さん將所領、追討純等有功、遷騎都尉。』(「三國志卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八」より)
5)   後漢書公孫さん伝のところ。本文のネタバレあり。『會烏桓反畔、與賊張純等攻撃薊中、さん率所領追討純等有功、遷騎都尉。張純復與畔胡丘力居等寇漁陽・河間・勃海、入平原、多所殺略。さん追撃戰於屬國石門、虜遂大敗。』(「後漢書卷七十三 劉虞公孫さん陶謙列傳第六十三」より)
6)   三国志およびその注に見られるこのころの劉備の挙動。本文のネタバレあり。まず基本の三国志蜀書先主伝。二つほど。「先主姓劉、諱備、字玄徳、たくたく縣人、漢景帝子中山靖王勝之後也。」「中山大商張世平・蘇雙等貲累千金、販馬周旋於たく郡、見而異之、乃多與之金財。先主由是得用合徒衆。」(「三國志卷三十二 蜀書二 先主傳第二」より)
それから三国志蜀書先主伝の注に引く典略。「平原劉子平知備有武勇、時張純反叛、青州被詔、遣從事將兵討純、過平原、子平薦備於從事、遂與相隨、遇賊於野、備中創陽死、賊去後、故人以車載之、得免。後以軍功、為中山安喜尉。」(「三國志卷三十二 蜀書二 先主傳第二」の注に引く「典略」より)
7)   後漢書南匈奴列伝の記述。「單于羌渠、光和二年立。中平四年、前中山太守張純反畔、遂率鮮卑寇邊郡。靈帝詔發南匈奴兵、配幽州牧劉虞討之。單于遣左賢王將騎詣幽州。國人恐單于發兵無已」(「後漢書卷八十九 南匈奴列傳第七十九」より)

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