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動き出した西方(孫氏からみた三国志36)
051026
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まぁ各地でいろいろと。前回と同じ地図
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、ルートに根拠はありません


   さて、漢陽郡の太守になった傅燮(字、南容)は時期は不明だけど後漢書傅燮伝1)によると任地に赴くこととなる。ちょうど前任者の漢陽太守は傅燮と昔ちょっとした関係があった。
   前任の漢陽太守の范津(字、文淵)は南陽郡出身の人(あるいは河内郡脩武県出身?)。范津は昔、北地郡の郡将(太守?)だったようで、よく人を見きわめる人だった。そのときに郡内にいた傅燮を見きわめ、孝廉に挙げた。ちなみに当たり前だけど、傅燮が喪に服したときの郡将とは別人だろう(>>その郡将はこちらを参照)。
   そんな范津は傅燮とちょうど太守を交代するようになり、范津はその地をさった。良い人物が続けて太守になったせいか、村里や国はこれを誉れとした(と、ここらへんの記述はうまく訳せてないせいかよくわからない)。

   そして太守となった傅燮の漢陽郡での政治だけど、傅燮はよく人をいたわっていた。それは漢人に向けてだけじゃなく民族の違いも越えていたようで、叛羌(反乱の羌族)は恩徳を持つようになり、一緒になって、傅燮の元に来て、降伏した
   彼らは土地を広く開拓し、屯田した(駐屯し農業を行った)。それら四十あまりの陣営が連なって設置されるほどだった。
   戦乱の中でもこういったふうに漢陽郡をよく治めていた傅燮だけど、やはり戦乱の影は忍び寄っているわけで…


   さてその顛末を語る前に別の話を二、三。
   まず自然現象のニュース2)
   中平三年(西暦186年)五月壬辰(30日)の日、日食があったとのこと。
   やっぱり昔の人だから自然現象に何かしらの意味があると考えるようで、皇帝は詔(みことのり)で公卿から率直な意見を求めた(なんと答えたかは不明)

   そしてもう一つ。
   前回、予告したように荊州南陽郡の反乱の話の続き。
   どんな反乱かとおさらいがてら簡単に書くと中平三年二月に江夏の兵である趙慈が反乱を起こし、南陽太守の秦頡が殺された。反乱により六つの県が陥落。
   そこで反乱鎮圧に派遣されたのは廬江郡で黄巾賊退治に実績のある羊續(字、興祖)だ。
   羊續は反乱の地の郡の太守、つまり南陽太守に任命されている。今まで書いたように反乱の地の刺史や太守に任命し反乱を鎮めさすのは常套手段っぽい。

   前回に引き続き後漢書羊續伝3)によると、羊續は境界を越え、南陽郡入りを果たした。
   だけど、それは軍を率いてじゃなく、いたんだ服を着て(身元がばれないように?)、密かに進んでいた。お供の者は屈強な兵卒、とかではなく、童子(こども)一人。
   羊續は県や邑をみてまわり、流行っている歌をききとり(土地の様子が反映してる?)、さらに進む。羊續はいろんな情報を手に入れていた。
   県や邑の令や長(つまり県や邑のえらい人)がことさら清廉ぶっていた。役人と民衆はずるがしこいので、今回の状況はみんな予知していた。そのため、南陽郡の郡内は驚き恐れる状況で、ふるえ恐れない者はなかった

   南陽郡の状況を充分につかんだのか、羊續はついに軍を動かした(中央の兵?   郡内の兵?)。単独の軍ではなく荊州刺史の王敏と共同だ。ここらへんは歴代の南陽郡での戦いに似ている。
   そして共同で趙慈の軍を攻撃。どうやら戦に勝利したようで、趙慈を斬った。五千級あまりの首をとったとのこと。
   後漢書孝靈帝紀4)によると、中平三年(西暦186年)六月のことだった。
   その後、南陽郡に属する県の残りの賊はみなすすんで、羊續に降伏した。羊續は皇帝に上言し、その付き添いを許した。光和七年のときのように(>>参照)降伏してきた賊を殺し、残党の反感をかい、戦の泥沼化をひきおこすようなことはなかったようだ。
   賊が鎮圧化されたということで、羊續は民衆の損得を調べ、政令を布告した。下調べバッチリだったようで、万民はその政令に喜んでしたがった。

   で、南陽郡での反乱とその後の政治のことはここまででここからは南陽郡で羊續個人のこと。
   当時、権威のある家は贅沢で美しいのを多く尊ぶ風潮にあった。ところが羊續はこれを深く憎んでいた。その憎しみの反動か、羊續は常に破れた衣をつけ、粗末な食事をし、車馬は疲れ病んだままにし、質素な生活を起こっていたようだ。
   それから羊續のことをあらわすエピソードを一つ。府丞(役所の副官?)は羊續に生魚を献上した。羊續はそれを受けたのはいいが食さず庭にかけた。府丞は後にまた生魚を献上しようとしたが、羊續は生魚を懸けているところまで出てきて、府丞の思惑をふさいだ。(収賄じみたことは断固拒否なんだろうか?) 
   エピソードをもう一つ。羊續の妻は子の羊秘と共に郡舎に行った。羊續は門を閉じ、妻を入れず、みずから羊秘を倉へつれていった。その倉の中にはただ布の夜着、破れた短衣、塩・麦数斛のみがあった。羊續は振り返り羊秘を戒める。「私はこのようにみずからささげているのに、何をおまえの母に与えるんだ?」   それから羊秘を母と共に帰らせた。
   羊續はこのようにストイックなほど質素で清廉な生活を送っていた。

   南陽郡の反乱がおさまった六月から冬十月の間、後漢書孝靈帝紀5)によると、理由はわからないが、趙忠が車騎将軍をやめさせられている。将軍だから軍事面のことだし、南陽郡の反乱が関係しているんだろうか。

   それからまた荊州の戦乱の話。
   荊州武陵郡に蠻族(つまり蛮族。異民族。以下、武陵蠻と称す)がいて昔からたびたび漢人と争っていた。一番、近い昔に戦ったのが延熹六年(西暦163年)秋七月で太守の陳奉が武陵蠻を大破している。この年の冬十月に武陵蠻は再び反乱をおこし、武陵郡の境界を越えて、攻めてくるほどだったが、郡兵がこれを討伐した6)

   同じ時期の京師の話。
   後漢書孝靈帝紀7)によると、内容は不明だけど、前の太尉の張延が宦官に訴えられ、監獄でなくなった。また宦官がらみ。もしかして先の趙忠の話と合わせて権力争い?
   これが京師の政情不安のあらわれか、それで呼び戻されたのか、この前後関係と理由は不明だけど、後漢書孝董卓伝8)によると、この冬に長安にいた現在の太尉の張温は京師に呼び戻されることになる。
   ちなみに孫堅(字、文台)がこのとき張温についていって京師に帰ったかそれとも軍事関連で長安に残ったか不明(「孫氏からみた三国志」なのによくわからないのが悲しい。)。

   このことで長安より西の官軍が弱くなったとみてとったのか、涼州の反乱の指導者の一人だった韓遂はある行動に出る。
   詳細は不明だが、なんと韓遂は同じく指導者だった邊章、北宮伯玉、李文侯を殺す。邊章はともかく、元々、関係のなかった涼州の反乱に巻き込んだ北宮伯玉、李文侯を許せなかったんだろうか。
   ともかく三人の指導者を失った軍は十万人あまりもいて、その兵卒たちを韓遂は従えた。

   次回、いよいよ涼州の軍と官軍との再戦となる。




1)   傅燮の任地先での政治。本文ネタバレ有り。ここらへんうまく訳せてない。素で勘違いしてそう。「初、郡將范津明知人、舉燮孝廉。及津為漢陽、與燮交代、合符而去、郷邦榮之。津字文淵、南陽人。燮善じゅつ人、叛羌懷其恩化、並來降附、乃廣開屯田、列置四十餘營。」(「後漢書卷五十八 虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
2)   日食。まず続漢書から。「中平三年五月壬辰晦日有蝕之。」(「後漢書志第十八   五行六」より)。それから後漢紀。「夏五月壬辰晦、日有蝕之。詔公卿舉直言。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。こっちが本文のネタバレ。それにしても二つの史書で同じ記述があると信頼感がます。
3)   羊續のところ。本文のネタバレあり。しかし、「續閉門不内、妻自將祕行」の標点は「續閉門不内妻、自將祕行」だと思ったので、本文でもそう訳している……といってもやっぱりうまく訳せてないのでよく意味が分からないところが多い。『中平三年、江夏兵趙慈反叛、殺南陽太守秦頡、攻沒六縣、拜續為南陽太守。當入郡界、乃羸服間行、侍童子一人、觀歴縣邑、採問風謠、然後乃進。其令長貪求A吏民良猾、悉逆知其状、郡内驚竦、莫不震懾。乃發兵與荊州刺史王敏共撃慈、斬之、獲首五千餘級。屬縣餘賊並詣續降、續為上言、宥其枝附。賊既清平、乃班宣政令、候民病利、百姓歡服。時權豪之家多尚奢麗、續深疾之、常敝衣薄食、車馬羸敗。府丞嘗獻其生魚、續受而懸於庭;丞後又進之、續乃出前所懸者以杜其意。續妻後與子祕倶往郡舍、續閉門不内、妻自將祕行、其資藏唯有布衾・敝ていとう、鹽・麥數斛而已、顧敕祕曰:「吾自奉若此、何以資爾母乎?」使與母倶歸。』(「後漢書卷三十一 郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳第二十一」より)。
4)   本紀は年月が特定できて便利。「(中平三年)六月、荊州刺史王敏討趙慈、斬之。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)
5)   趙忠の話。他の箇所にやめた(やめさせられた)理由はあるんだろうか? やはり権力争い? 「(中平三年六月の後)車騎將軍趙忠罷。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)
6)   武陵蠻のこと。後漢書本紀の中平三年のところをみたら、一行ぐらだったんで、それほど歴史が深くないな、と思ったら、異民族のことなんでやっぱり奥深かった。ここでは少ししか触れていない。まず後漢書本紀の記述。「(中平三年)冬十月、武陵蠻叛、寇郡界、郡兵討破之。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。それから以前の武陵蠻叛の後漢書本紀の記述。「(延 熹六年、西暦163年、秋七月)武陵蠻復叛、太守陳奉與戰、大破降之。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。それから後漢書南蠻伝。「至靈帝中平三年、武陵蠻復叛、寇郡界、州郡撃破之。」(「後漢書卷八十六   南蠻西南夷列傳第七十六」より)
7)   張延の話。やはり権力争い? 「(中平三年冬十月以降)前太尉張延為宦人所譖、下獄死。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)
8)   張温の話や韓遂の話。本文のネタバレあり。「其冬、徴温還京師、韓遂乃殺邊章及伯玉・文侯、擁兵十餘萬、進圍隴西。」(「後漢書卷七十二   董卓列傳第六十二」より)
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