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一方、浙江以南では…(孫氏からみた三国志11) |
030406
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<<新婚でルナルナ(孫氏からみた三国志10) 文台が引っ越し先で新婚生活を満喫(なのか?!)しているころ、残された人々はどうしてたんだろう? 何も変わらず元気にやってるのだろうか? なんて疑問がわいてくる。 文台の故郷、富春でも、呉夫人の故郷、錢唐でも史書も見ても特にかわったことはなさそうだ。 あとは、兵乱のあった地、会稽郡ということになる。 (あ、この展開でおわかりかもしれないですけど、今回、文台が出ない話です。文台だけ見たい場合は、>>こちら) |
おさらいだけど、会稽郡やその他の郡(丹陽郡や呉郡など)をだきこむ行政区域は揚州。 この州という行政区域で一番、偉い人が「刺史」って位。 ただし、刺史は郡を監視するのが主な仕事のせいか、郡で一番偉い位、太守の方が位的に偉いのだ。 ちなみに、揚州の刺史だった臧旻は、兵乱を討伐した手柄で、前回、書いたように、多分、丹陽太守に昇進している。 だから、この時点での刺史は臧旻ではないと思う。 一方、会稽郡の太守だった尹端は兵乱に敗北した罰で、この時点で太守ではない。 この時点の太守は徐珪(字、不明)になっている。 なぜ、改まってこんなことを書くかというと、今回のテーマは揚州と会稽郡のいざこざの話なのだ。 ここで出てくるのが、以前、準主役(?)として登場していただいた会稽の郡吏(やくにん)、朱儁(字、公偉)。 文台にかわってまた公偉に、準主役となってもらう(<:<以前、準主役になった回)。 以前は主簿という役職だったけど、今回は功曹1)という役職。 |
さてはて、今回のエピソードは後漢紀2)から。 用語とか以前のエピソードとかぶる部分が多いので、そちらも参照してくれると幸い(<<以前のエピソード) その記述によると、会稽郡の太守である徐珪は、州(の政府)から事実無根のこと(悪い報告)を京師、つまり ![]() なぜ、州(の政府)はそんな悪いことをするのかはとりあえずおいといて、郡吏(郡の役人)は宦官3)(中央の役人)に賄賂(わいろ)を送ってそれをないことにしようとした。 なぜ、州はそんな報告を中央政府にするんだ!? って疑問に思うけど、それは公偉に答えてもらおう。 (今回のセリフ部分の原文は今まで以上にわかりにくかったので、助字を削ったり、勝手に接続詞をつけたりしているので、今まで以上に忠実な訳とは言えないです。採用するかどうかはべつとして…… 我こそは! って方は掲示板にでも訳を書き込んで下さい<<掲示板) 公偉は太守に言う。 「あなたは無実の罪に陥れようとされているのに、命をふるおうと思わず、賄賂を送ることで、けがれをもって不正をただそうとしています。それでは君主がいるのに臣下がいないようなものです4)。今、州は自ら賄賂を受け取るやり方をしていますし、郡にわずかなでも賄賂を求め、罪を犯しながら人を無実の罪におとしいれようとしています。私はこのことを詳しく知っているので、京都(洛陽)に行って、賄賂を使わず、事をなします」 あー、長いセリフで(×下手な訳)、わけわかんないので、ちょっと要約してみる。 私が解釈するに、そのときの州は郡に賄賂を求めていて、郡が賄賂を送らなかった場合は、自分の「賄賂を求める」罪を棚に上げ、嘘の報告で郡に罪をかぶせるということをしていたみたい。 臧旻が刺史だったころには考えられないことだけど、時代はかわっちゃったようだ。 太守はそれを賄賂で揉み消そうとしたんだけど、それは無実の罪が本当の罪になることにほかならない、と清岡は思う。 そこで公偉はこれ以上、賄賂なんて使わずに京師(洛陽)までいってそれを正してやると言っている。 ……ん? 公偉が京師に行く? どこかで聞いたことあるエピソードだけど……(<<以前のエピソード) それで太守の徐珪は言う。 「君の知恵と心意気は、私にはわかることだが、今は州の上奏文がすでに放たれているので、おそらく間に合わない」 太守の言うとおり、本当にもう州から上奏文が出ているのだったら手遅れのような気がする。 なんてったって、州府(州の役所)のある歴陽は京師(洛陽)から一千五百里ぐらいしか離れていないけど、会稽郡は京師(洛陽)から三千八百里ぐらい離れている5)。 |
公偉はそれでもあきらめない。 「文章を作り、馬を倍、速く走らせ、先行する州の者に近づきます。さらに宿場をたずね、追いつめ、州の書をとってみせます」 なんてことを言い放つ(ってセリフは清岡の装飾がありまくりだけど・汗)。 それに太守の徐珪は心を動かされる。 「よし! たのんだぞ!」 そういうわけで、公偉はその日の夜には出発する(夜陰に乗じて? それとも太守との会話は夕方?)。 お供は身軽な騎手数十人。 まず、太守に言い放ったように、手分けして、州の書を探すことから始める。 何とか、州の書を見つけ、かすめとることができ、それを握りつぶすことができた。 その後、公偉は一人で京師(洛陽)に行く。 州の悪しき習慣を絶つために。 京師(洛陽)で公偉は刺史の罪を告げた書を中央政府へ提出する。 その効果はてきめんに現れる。 中央政府からすぐに指令が州に下った。 揚州の刺史はめしだされる。おそらくいろんな罪を問いつめられたんだろう。 もちろん、太守の罪はなかったことになる。 刺史のことは自業自得のような気がするんだけど、やっぱり公偉に恨みを持つ者が出てくる。 刺史の家の者はそのことを聞いて、刺客を手分けし道で待ち伏せし、公偉を殺そうとしていた。。 公偉はそれを事前に察知し、会稽へ帰る前に洛陽尉の司馬珍を頼った。 それから隠れて服を変え、洛陽を立ち去った。 自分の罪が消えたことで、太守は大喜びした。 で、このことにより公偉の名が知られるようになる。 んー、やっぱり太守や州の体勢は違っても、何だか、以前のエピソードと似ている(<<以前のエピソード)。 普通は一つのエピソードが長い年月の間、いろいろ枝葉がついちゃったり変わっちゃったりして、二通りのエピソードになって現代に伝わったって解釈する方が自然なんだけど。 清岡はあえて、別々のエピソードとして取り扱った。 |
つまり、清岡はこう解釈する。 以前のエピソード中では、京師へいった公偉は、あえて賄賂を使って太守を助けた。 でも、そのときのことに心を痛めたのか、今回は賄賂をまったく使わず正攻法で太守を助けた。 以前のエピソードでは太守を助けたと言っても賄賂を使ったんだから、それは恥ずべきことで、外に漏らさないようにするだろう。 だけど、正攻法で太守を助けた方だったら、隠さず堂々としていられる。 そのため、公偉の名声は広まったんだろう。 名声が広まれば、それに見合った良いことがあるもんで、公偉は太守の徐珪によって孝廉にあげられる。 孝廉ってのは以前、説明した朱治(字、君理)もなったやつね(<<以前のエピソード)。 君里が丹陽郡の孝廉なら、公偉は会稽郡の孝廉ってわけ。 孝廉になったら、出世が約束されたようなもので、公偉は尚書郎6)になり、さらに蘭陵令になった。 蘭陵令とは蘭陵県の一番、偉い人。つまり県令7)なのだ。 |
え? 蘭陵県ってどこだって? それは徐州東海郡にある。 文台と同じ州の県吏になったってこと。 なんらかの出会いがあったのかなと想像してしまう。
1) 功曹。郡の役職の一つ。後漢書をあたったらすぐ何かわかるかなっておもったけど、わかんないね、ここらへんは。とりあえず俸禄(給料)不明。漢官儀(後漢書張[酉甫]傳注)によると「督郵・功曹、郡之極位。」とのこと。「極」は「もっとも」と訳すとわけわかんないので、督郵と並んでるところをみると、「郡の見極める位」とでも訳すんでしょうかね(あ、いい加減ですよ)。 <<戻る 2) 後漢紀。詳しく書くと、「後漢孝獻皇帝紀卷第二十八」ってところです。興平二年(西暦195年)からはじまるところ。賢明な読者なら「え?」と思うことでしょう。なぜなら、前回まで喜平三年ぐらい(西暦174年ぐらい)だったからです。20年も開きがあります。と、いきなり種明かしするとそれは後漢紀という史書の特徴上に理由があります。後漢紀は編年体で年ごとに出来事をおっているんだけど、主要人物が出るといきなり、列伝形式になり、時代が戻ったりするからなのです。興平二年に公偉がクローズアップされ、公偉の生い立ちが語られるってわけです。 今回、取り上げたのは『儁字公偉、會稽上虞人。少好學、為郡功曹。太守徐珪為州所誣奏、郡吏謀賂宦官、儁曰:「明府為州所枉、不思奮命、而欲行賂、以穢清政、是有君無臣也。今州自有贓[シ于]、而求郡纖介、抱罪誣人。儁具知之、請詣京都、無以賂為也。」珪曰:「卿之智情、我所知也、今州奏已去、恐無及也。」儁曰:「操所作章、疾馬兼追、足以先州。且尋郵推之、州書可得矣。」珪曰:「善!」儁即夜發輕騎數十人、分伺州書、果得而鈔絶之。儁得獨至京師、上書告刺史罪、章即下、乃徴刺史、珪事得解。刺史家聞、使刺客分遮道、欲殺儁。儁知。乃從洛陽尉司馬珍、自匿變服而去。珪大ス、儁由是顯名。舉孝廉、為尚書郎、遷蘭陵令。』という部分です。 <<戻る |
3) 宦官(かんがん)。中官ともいう。宮中の官吏ね………ってこういう説明で済めば清岡は躊躇することないんですが、今回はちゃんと説明します。えーと、ですね。宮中ってのは天子(皇帝)の奥さんがたくさんいて(一夫多妻制)、他にも侍女とか居るんですけど、天子以外の子どもが生まれちゃこまるってんで、基本的に男子禁制なんですよ。でも、事務手続きとかに男性が居た方がいいのです(当時は男性社会です、残念ながら)。じゃ、どうするってんで、そこで登場するのがこの宦官。実は男性のシンボルを切り取っていて生殖能力のない男性なんです。罪を犯してそういう状態になる人もいるんですが、出世を望んで(結構、宦官の人脈ネットワークは強いのだ)、みずからそういう状態になる人もいるそうです(又聞き)。まだ(11回)、「孫氏からみた三国志」では出てこないんですけど、そのうち嫌と言うほど、出てくると思いますよ。 <<戻る 4) 原文「是有君無臣也」。「有君無臣」の意味することがわからない。この四文字は「三國志卷十九魏書任城陳蕭王傳第十九」に載っている曹植の詩にもみられるんだけど…… <<戻る 5) 京師からの距離。後漢書郡國志を参考にしている。譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第三冊三国・西晋時期」(中國地圖出版社出版)と見比べてみると、どうやら、京師から最も近い郡境までの距離みたいだ。だから本文中では「ぐらい」ってのを入れている。 <<戻る 6) 尚書郎。えーとこの役職について詳しく書いているところはと……「尚書郎、西漢舊置四人、以分掌尚書。其一人主匈奴單于營部、一人主羌夷吏民、一人主戸口墾田、一人主財帛委輸。及光武分尚書為六曹之後、合置三十四人、秩四百石、并左右丞為三十六人。郎主作文書起草、更直五日於建禮門内。尚書郎初從三署詣臺試、守尚書郎、中歳滿稱尚書郎、三年稱侍郎、選有吏能者為之。」(晉書卷二十四志第十四職官より)です。この部分は尚書郎の変遷について書かれている。引用した部分のすぐ後が魏のことになるんで、実質、「及光武〜」がこの時代の制度と言うことになるんだろうね。俸禄(給料)は四百石ってことで、主に文書の起草をつくるってことで……うーん、もっとちゃんと訳さないとだめかな。 <<戻る 7) 県令。県の一番えらい人。「屬官、毎縣・邑・道、大者置令一人、千石;其次置長、四百石;小者置長、三百石;侯國之相、秩次亦如之。(中略)縣萬戸以上為令、不滿為長。」(後漢書志第二十八 百官五より)というように、県の戸数によって、県のえらい人でも役職名がかわってくる。一万戸以上だと「令」になり、それに満たなかったら、「長」になる。また県の規模によって、俸禄(給料)もかわってくるみたい。「令」だと千石、「長」だと四百石。さらに小さいと三百石てな感じで。 <<戻る |
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