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憧れのもとに 二二 |
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<<目次 <<小説本編の入り口へ戻る <<二一 右の馬の手綱を引いて、歩く呂子衡。 その前を早足で歩く孫策と周瑜。 瑜が思うに、もう黄巾賊に襲われる心配のないところだ。 それを見透かしたように瑜の背中越しから「そろそろだな」と子衡は声をかける。 「もういいだろ……それに、見てみろ」 子衡の一声で、策と瑜は振り返った。そして子衡の指し示す方を見る。 瑜が見ていた頃より官軍も黄巾賊の軍も小さくなっていた。彼はかなり元いたところより遠くまで来たと実感していた。そしてもう一つ、あることに気付く。彼の見るところから右の城壁よりに見えていた賊軍が、今は官軍より向こう側に多くいる。 瑜は策の顔を見る。策は両腕を前に組み、ゆっくりうなずき、満足げな笑みを浮かべる。瑜は策も同じように思っていると感じる。 戦の峠は越えた。官軍は賊軍を追い払おうとしている、と。 この子衡って人はこれを見せたかったんだ、そう思いながら、瑜は彼の方も見る。そうすると子衡はうなずく。 「見てのとおり、官軍の勝ちは決定的だ。確か、周とか言ったな、君は。孫郎に君も振り回されたみたいだな……心から同情するよ」 子衡は冗談めかしく、にこっと瑜に微笑んだ。瑜が何かを言う前に策は子衡の方へ寄る。 「おい、そんな言い方はないだろ。それに周郎は進んで俺についてきたんだ……本当だぞ!」 策は間髪入れず勢い良く、声をあげた。子衡はすぐに策に向き直る。 「だって、そうだろ? おまえのことだから、俺が来なかったら、平気で舒の城に入ろうとしてたんだろ? そしたら、おまえだけじゃなく、この子も危ない目にあってたんだぞ」 子衡はいつの間にか声に熱を込めていた。子衡の熱さをはぐらかすように、策は鼻で一笑する。 「『入ろうとしてた』じゃなくて、舒の城には一回、入ったんだ。子衡にも見せたかったなあ、俺の活躍を」 策は得意げに胸を張った。子衡の眉間はますますせまくなる。 「おまえ、まだ俺をだまし足りないのか?」 子衡のその言葉に策は少し困った顔をした。 「本当だって、現に周郎は舒の住人だ」 そういって、策は瑜を指し示した。そして彼は胸の前でかしわをうつ。 「そうだ。周郎からも子衡に言ってやってくれ、俺たち舒の城内から来たって」 策は瑜に請うた。瑜は変なことに巻き込まれたなと思いながらも、本当のことを口にするつもりでいる。 「はい、孫郎は城の外から僕の家に現れました。それから戦に少しでも役立とうと城の外に出ました」 瑜の視線はまっすぐ子衡に向いた。子衡と目があう形となる。 「うーん、信じられん…」 子衡は少し弱めたものの、策にまだ疑惑の眼差しを向けていた。 会ったばかりの子衡を納得させる難しさを瑜は感じる。 策は引き下がろうとしない。 「本当だ。羊太守にも会ったんだぞ、俺たちは……間近で指令を出しているところをみたんだ!」 策は語気を強めた。子衡は両腕を組んで横目で策を見ている。 「ふーん、この郡の太守の姓は知ってるんだな、おまえは……その羊太守はさぞかし立派な方だったんだろうな……今のおまえとは比べようのない立派な姿をしておられるんだろう」 子衡は策に話を合わせていが、策の話を信じている様子はなかった。 策は体の泥を二、三回、払って、また子衡の方を見る。さっきまでの反発する顔じゃなく、疑問を持っているといった顔だ。 「うーん、羊太守は立派な人だった……あれが『尊敬できる』っていうのかな……でも、全然、偉い人の着るような立派な服装じゃなかったぞ……そうだな、ああいうのを『質素』って言うんだろうな…」 策は思い出しながらつぶやいていた。瑜は、策の言っていることが的を射ていることを確かめた。 子衡の表情が固まる。 「おまえ、今、何て言った?」 子衡は間をおいて声を出した。 「え? 何かって?……あー、羊太守は立派な人だって言ったんだ」 策は不思議に思う表情で答えた。 「そうじゃなくて、服装のことだよ」 子衡はすぐ聞き返した。 「あー、質素って言ったんだよ。変だけどね…」 策はまだ不思議そうな顔をしていた。瑜もどういうことなのかつかみかねている。 策の言葉を受けて、子衡の表情はまた固まる。 妙な間があく。 ようやく子衡は話し出す。 「おまえたち……いや、孫郎と周郎が城の中から出てきたって本当のことなのか? 廬江太守、羊興祖どのは常々、贅沢を嫌って、自らすすんで、太守とは思えないほど、簡素な服を着ていることで有名だ。でもそれは俺たち、官吏(やくにん)の中で有名なこと。それ以外の大衆には、まだ知られていないこと……おまえが嘘をついていてもそれだけは舒の城に入らない限り、知りようがないはず…」 子衡は重々しく言葉をつづっていた。 「な、俺の言うことは本当だろ?」 策は再び得意げに振る舞った。 子衡は策を見て、それから瑜を見る。 ようやく子衡にわかってもらえたと、瑜はにこりとする。 「えー、本当です」 瑜は力強くうなずいていた。 馬信議の体は無傷だ。だか、それが返って、今の状況をとても痛々しく引き立てている。 舒の城の外へ出れば、再起をはかれると信議は信じていた。しかし、それはさらに大きな誤解を確認するだけだった。 そこに待ち受けていたのは、信議にとって絶望そのものだ。それは新たなる官軍、近隣からの援軍だった。いつも通りの援軍であれば、簡単に迎撃できただろう。しかし、城攻めの最中に攻撃を受けたということは、ちょうど挟み撃ちの状態ということだ。しかも、よりによって、戦況が芳しくないときに。 もともと、城内の軍に手痛い反撃を受けていたときの、背後からの攻撃。それがどのような結果をもたらすか、全軍を指揮する信議じゃなくても誰の目にも明らかだ。現に信議が見える範囲の味方すべて、危機的状況に貧している。隊列が乱れ、攻撃を受ければもろくも崩れる。 信議のできることはただ、北への逃げ道へ導いてやることだけだ。 それだけに信議にとって無傷な体が疎ましい。できることなら味方が受けるすべての攻撃をこの体で受けてやりたい、と彼は思う。 それにまだ城から脱出できていない信者たちがいることに彼は気を向けている。しかし、その認識は単に彼らの死を確かめるだけのことだ。もう城内の信者を信議は救いようがない。 無駄とはわかっていても、すべてのしがらみを振り払うかのように、あくせくと信議は指令を出し続ける。この地から離れるためだ。 信議にとって、今はもう、この地でできることは何一つない。そして、もうやろうとも思わなくなっている。馬元義という名に後ろめたいものを強く感じている。信議に残されているのは無力感だけなのかもしれない。 こんなやりきれない気持ちの中でも、こんな状況でも、信議にはただ一つ、心残りがある。 戦況が一変する前に、牆(かべ)の向こう側から聞こえてきた、あの声のことだ。 男の声の後に歓声が上がるのは信議にも理解できる。官軍の指導者が号令を発し、兵卒たちがそれに応じた、ただそれだけのことだ。 しかし、小男(おとこのこ)の声の後に、さらに大きな歓声が上がるとは、どういうことだ? と信議は自問する。明らかにその声がきっかけで、敵軍は力を盛り返し、そして信議の軍は劣性におちいったからだ。 できることなら、その声の主を確かめてみたかった、とそれが信議の心残りだった。 子どものうちからそれほどの人物であれば、将来、確実に大物になるだろう、と信議は思う。黄巾賊を脅かすどころか、この四海(てんか)すら揺らしかねない、と彼は何となく心に描く。 いつかどこかでその者と相まみえるには、信議自身の力を盛り返さなければならないな、とまるで他人事のように彼は思っていた。 信議の向かう先はまず安風というところ。そこに仲間の戴風がいる。あてにするわけではないが、食糧などの面で一時しのぎはできるだろう、という考えを彼は持っていた。 「場合によっては、遠く、徐州の黄巾賊を頼らないといけないかもな…」 喧噪や悲鳴の音で満たされる中で、信議はつぶやいた。その声は当然、誰の耳に入ることなくかき消される。 「馬元義様……あの小男と再び、相まみえるときまで力をお貸しください……」 信議の声はもろくもかき消されたが、その願いは叶うと彼は信じられるようになっていた。 |