馬上の少年   〇六
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   太陽がちょうど中空にあるとき、赤を基調としたあでやかな服をまとう男が往来を歩いている。人の集落からはほど遠いところである。その男と歩調を合わし規則正しく囲む上下黄色の服を着る男五人。その男たちは弓矢と鉄刀を装備していた。そして、真ん中の男の左右に二人、真っ正面に一人、そして後方の左右に二人といった隊列をくんでいる。
   派手な服とは対照的な青白い顔を有する男の名前は許太明。旅先から急ぎ故郷の会稽に戻る途中である。彼は会稽で陽明教と呼ばれる宗教団体の教祖で、今回の旅は布教活動の一環だった。
「馬とか馬車とか何かの乗り物は用意できなかったのか?」
   と、許太明は歩みをまったく止めず正面を向いたまま苛ついた声を出した。
「教主様、我慢してくださいませ。もう少しで津(わたしば)に到着いたします。そこまで行けば迎えの者が大勢いましょう」
   と、太明の左隣の男は太明の方を向いて返答した。
「馬を用意できなかったのはおまえらの不手際だ!」と太明はさらに声を荒げた。今、彼が不機嫌なのは今朝、届いた知らせの所為だ。その知らせの内容は、彼の息子が彼の信者を集めて会稽で反乱の兵を挙げたといったものだった。彼は確かに我が子を大将軍の位につけ軍事権の一部を渡したが、勝手に動かれたことに憤りを感じていた。彼が思うには、まだ反乱を起こし会稽を乗っ取るには兵の数が充分ではない。何よりも教主の彼の許可をとらずに勝手に兵を挙げたことを彼は許すことができなかった。何のために今まで会稽郡一帯で兵の食糧を集めてきたのかわからんではないか、と彼は怒りにふるえていた。「そのうち罰を与えるので覚悟しとけ!」
   太明の目に道の行く先で十数人からなる旅の一団がこちらに向かってくるのがうつった。どうやらこの胸のむかつきをおさえることができそうだ、と彼は不気味な笑みをうかべる。

   やがて、互いに姿がはっきりわかるようになるぐらいに近づいた。ちょうど、そこは三叉路の真ん中であった。太明の一行は道を前から来る旅の一団に道を譲ろうとせず頑と立ちはだかる。太明は口をあける。「あの者たちに教えを説け」
「承知いたしました」太明の命令を受けて彼の前にいる側近の男は一歩前に出た。「我ら東から上り世の中を照らす陽明。古来、禹王が群臣を呼びし会稽に志を同じくして集う。従うならともに世直しを、従わないなら貢ぎ物を」
   太明の側近が発する声は非常に大声であったが抑揚のない冷たさのある声であった。太明の前に立つ人々のうち指導者らしき中年の男と側にいる屈強な男たちは薄ら笑いをうかべる。その旅の一団が、太明の側近の言うことをまともにとりあってない証拠だ。太明はその様子をじっと見つめ、口の端をあげる。
「確か、ここは浙江の北だから呉郡に入るんだなぁ」と太明は側近の者につぶやいた。「ちょうど良い。いずれここにも陽明教の軍を派遣するから今のうち、ここの民に恐怖をほどこしておこう」
   旅の一団には用心棒らしき武装した男たちが含まれていた。太明はそれを一瞥し不気味な笑みを浮かべる。
「帰ったら教典に加えないといけないなぁ、『逆らうなら死を』って一文を…」また太明は誰に言うわけでもなくはっきりしない口調でつぶやいた。そして周りの者へ命令を下す。「そうだな、おまえらへの罰だ。目の前のやつらをすぐ皆殺しにしろ」
   太明のしずかな一言で周りの五人は一糸乱れず彼の前で横並びになり、弓に矢をつけ一斉に弦を引いていた。その様子を見た旅の一団は皆、表情を硬直させた。


   少女の目にはとても信じられない光景が映し出されていた。それはさっきまで語りあったり冗談を言い合ったりしていた人々が今は地面に倒れて動かないでいる光景である。
   少女の名は呉江姫(ごこうき)。今年で一六になる。ただ用事で伯父の家まで行き、身の安全のため、とある旅の一団に同行し故郷の銭唐へ帰ってくる──そんなありきたりのことのどこと、こんな凄惨な光景とがつながるっていうの、と彼女は自問する。彼女は目の前で行われた殺戮を今も信じられないでいる。そして次は自分の身に危険が及ぶということに気がまわらないでいる。とにかく彼女は混乱している。

「ほら、あそこにまだ一人居るぞ」
   と殺戮者たちの頭領らしき人物のつぶやき声が江姫の耳に入る。旅の一団の一番うしろにいた彼女は先ほどまでその男の声を聴き取ることはできなかったが、今はなぜか一言一句をはっきりと聴き取ることができた。そして彼女の目には五人の殺戮者たちが確実に歩を進めこちらに近づいてくる様子がうつった。ようやく彼女は身の危険を感じつつあった。逃げなくちゃ、と彼女の胸の奥で何度も声がするようになる。だけど、体のいたるところが硬直していて彼女はまったく動けないでいた。彼女はそれが恐怖のためだということを自覚する。
   江姫のもとへ一番、先に来た殺戮者が鉄刀を鞘から出す。彼女の体は相変わらず動かなかったが、殺戮者が来るにしたがい体は小刻みにふるえていた。
   江姫のもとへあと数歩といったところで、殺戮者たちは斜め後ろへ振り向く。残り四人の殺戮者、それにその頭領も同じ方向へと目を向ける。彼女はその視線の先を追う。そうすると彼女の目に馬で駆けてくる人の姿が映ってくる。それと同じ時、彼女の耳に言葉になっていない、大きなかけ声が入ってくる。
「うおおお」
   江姫の視線の先には、馬上で鉄刀を振り上げる男がいた。その馬はかなりの速さであったが、まだここからずいぶんと遠い。彼女の手前にいた殺戮者たちは五人とも驚く様子もなく、平然と弓をかまえ矢先をその馬上の男へと向けた。
   すぐに放たれた五本の矢は馬上の男のもとへととんでいく。それらの矢は男の方へ向かっているというよりむしろ男が乗る馬の方へ向かっていた。男はすぐに馬首を左手方向へ向かせ、鉄刀を両手で握り、馬に向かう五本の矢を懸命に払う、まるで馬をかばうかのように。
   しかし、男は矢を払った勢いにより馬上で平衡を失い、地面へと右肩からたたき落ちる。

   殺戮者五人はその時すでに二本目の矢を男に向けていた。それらの矢は落馬した男へと放たれる。それを察知してか男は矢をかわすように寝たまま転がり続ける。
   男は転がる勢いを殺さずに流れるように飛び起き、そのまま殺戮者たちの方へ走ってくる。
「うおおおおお」
   すでに殺戮者たちにより三本目の矢が放たれようとしていたが、男は構わず叫び声をあげながら突っ込んでくる。それを見た殺戮者たちは構えていた弓矢をすぐに納め一糸乱れず鉄刀を鞘から抜き、男の元へ歩み寄る。まず男は頭領の前にたつ二人の殺戮者たちと鉄刀を交える。
「なにやってんだ」と殺戮者の頭領は目の前で戦闘が繰り広げられているのに落ち着きはらった声を出した。「そんな男一人になに手間取っているんだ。早く皆殺しにしろ」
   江姫はようやく男の姿をはっきりと見ることができた。彼女が見るに、その男は官吏(やくにん)らしい服装をしているが、その顔には意外とまだ少年のあどけなさが残っていた。その少年と戦っている二人以外の殺戮者たちは少年を囲むように歩を進めている。その囲いのすぐ外側に立っている頭領は事が早くすまないという苛立ちはあるものの、その態度は余裕そのものだ。
   少年が殺戮者たちの鉄刀に倒れるのは時間の問題、と江姫は思った。おそらく殺戮者たちもそう思っているだろう。次は自分の番、と彼女はひしひしと感じている。
   殺戮者たちの包囲が完成しようとしたとき、少年は急に身をかがめる。それにあわせるかのように、殺戮者たちの動きが一瞬、止まる。そして少年は地面をするどく左足で蹴り、横飛びする。その向かう先は殺戮者の体ともう一人の殺戮者の体の間にあるわずかな隙間。少年はその隙間に右肩、右手、右足から飛び入り、見事、殺戮者たちの囲みを突破した。囲みを抜けた少年の目の前には頭領が立っていた。
「なっ」頭領の余裕の表情は一瞬にして凍りついた。すでに頭領の視界から少年は消えていた。「ど、どこだ」
   少年は頭領の背中へ回り込んでいた。首を左右にふり少年を探す頭領を少年は後ろから左腕で抱え、右手に握る鉄刀の刃を頭領の首に近づけた。「動くな!」
「それから、おまえらも動くな!」頭領の首に鉄刀を当てる少年は五人の殺戮者たちにも命令した。「こいつの命が惜しくばそれ以上、動くな」
   五人の殺戮者たちの動きはぴたりと止まった。


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