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馬上の少年 〇二 |
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<<小説本編の入り口へ戻る <<〇一 空はまだ赤くはないといえども、日光が西の窓をとおって部屋の中ごろまで射し込んでいた。その日差しをまぶしく感じつつもめげずに机の上の木簡に何やら書きつけている男性が一人。 男性の歳は一六。名前を徐子直という。役所の事務室には珍しく彼しかいない。 子直は数多くの古い木簡を手際よく見ながら、その都度、手元の算木を動かし、時には書刀を操っている。彼には決算に備えた計算の確認部分を県吏(やくにん)の仕事として割り当てられていた。彼は、多少、焦りながら計算を押し進めている。うまくいけば今日中にこの仕事を片づけることができるからだ。 子直は黙々と作業を続ける。そんな彼の視野に「禄」といった文字がはいる。その時、彼の頭の片隅に一瞬かすかに不安が横切る。さらに不安に感じたこと自体を不安に感じ、不安が彼の心の中でどんどん大きくなり、自然と彼は一度見た古い木簡に目がいく。 そして子直は、はっとする。彼は単純だがとても大きな間違いを犯していることに気づいた。彼ら、県吏(やくにん)がもらう給料は、確かに彼らにとっては「収入」であるが、県府(やくしょ)にとっては「支出」だという単純なこと。彼は計算でその部分のすべてを間違えていたのだった。 「畜生! こんなくだらないことで間違えるなんて! すべて計算し直しだ!」 と子直は誰に言うでもなく叫び、手元の算木を床にたたきつけた。 「そこまで計算しててやり直しとは残念だったな」 子直の背中越しにそう声がした。彼はびくっとし、すぐに立ち上がり、それと同時に背後を振り返る。そうすると彼は見慣れた人物の顔を確認する。 「なんだ、びっくりさせやがって。孫文台かよー」 と、子直はその見慣れた人物を孫文台と呼んだ。子直は県吏らしいゆったりした服装をしていたが、文台は県吏だとわかるように綬をつけていたが、いつもと違うすっきりした服装をしていた。文台の顔は汗でほてっていたが、彼に馴染みのある顔ではあった。文台は彼の前で声を出して笑う。 「いや、わるいわるい」と文台。まだ彼は笑いをおさえきれず息が乱れている。「おまえが計算にあまりにも真剣だったものでな。ついつい声をかけ損ねたんだ」 徐子直は不意をつかれた驚きと悔しさとの入り交じった表情を文台に向けていたが、そんな表情を恥じ、怖いくらいの無表情にかわっていた。「おまえ、いつからそこにいたんだ?」 「結構、ここにいた……少なくとも徐が独り言をいう前までにはね」文台はそういうと、いたずらっぽくまた声をたてて笑った。 「そんなことより、孫。伝馬の仕事の途中じゃないのか」子直の声には、ほんの少し怒気が混じっていた。「はやく、県長のところへ書類を届けたらどうなんだ」 声を出している間、子直は自分の心にわずかばかりの複雑な劣等感があるのを感じていた。文台と同い年である彼は成人して文台と同じ時期に県吏になった。しかし、馬に乗れる文台には日常の仕事以外にも伝馬という特別な仕事が与えられた。その仕事があるからといって給料が変わるわけではないのだが、特別な仕事をもつ文台に彼は少し先を越されたような気がしていた。 「おう、そうだな」文台は子直の提案に注意をむけた。「はやく県長に書類を届けて、仕事、終わらせて、家に帰るかなぁ……」 子直の目には文台が右手を自分の顎へもっていき視線を上に向け何やら軽く考え事をしている様子が映っていた。文台は馬から降りたばかりのようで、その服装はまだ馬に乗りやすいように袴褶(こしゅう)を着ており、体全体から熱気を発していた。やがて文台は彼に背を向け部屋から出ていこうとしていた。 子直は文台に驚かされたまま、おめおめと部屋から出す気にはなれなかった。彼は文台が部屋から出ていく前に驚かされた借りをきっちり返す気でいた。 「文台」 そう子直は文台に呼びかけた。文台は部屋の出口で振り返る。 「おまえ、その袴褶、似合いすぎだぞ」と子直。「一生、伝馬の仕事、するといいかもな」 子直が発した最後の言葉には明らかに皮肉が込められていた。彼の言葉は彼の文台に対する確執の表れでもある。俺に伝馬の任が与えられていないとはいえ文台に負けたわけではない、と彼は文台に強い思いを抱いていた。 「この服、そんなに似合うか? そういってくれると嬉しいよ。ありがとな!」 文台はそんな子直の嫌みを気づいるのか気づかないのか屈託のない笑顔で子直に礼を言うと、いそいそと部屋から出て県長室へと向かっていった。 「はははは」 徐子直には力無く笑うしか術が残されていなかった。 |