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富春孫氏の来歴は結構ややこしいことになっています。
まず、「女爲」姓を名乗る一族がはじめにいました。彼らは周王朝が建国されて以降、陳国公に封じられています。この一族が陳国滅亡後に陳姓を名乗ります。この陳国出身の公子の中に、亡命して他国で陳姓を名乗り始めた人もいます。陳邯・慮・劼隆阿・△海譴・遒把調阿鯡松茲襪茲Δ砲覆辰燭修Δ任后」
陳完が元になる陳氏の別姓を田といいます。春秋戦国時代に詳しい人は多分ここで気付くのでしょうが、齊の陳一族、有名人には『晏子』(宮城谷昌光)でおなじみの陳須無やら陳無宇やらがいます。戦国時代には齊の公位を簒奪して齊王となる田(陳)一族です。ここから先には孟嘗君などもいますが、とりあえず、時代を晏子の時代まで戻します。で、陳無宇の次男に陳書という男がいまして、齊景公の代に莒国を攻めているのだそうです。ここで成功を収めた褒章に、齊景公が陳書に「孫」の姓を下賜。これが後に山東孫氏、楽安孫氏と呼ばれる一族になるのだそうです。
ここで、寒泉の『左傳』で「陳書」と検索をかけると、確かに齊景公の頃に陳書が進言をしている記事がありますので、一応実在していると確認できました。
目的は富春孫家の来歴なので、ここからさらに続きます。
山東孫家となった陳書の一族がさらに齊の内乱から逃れて呉へ移動したのが孫武の代あたりとされます。で、秦が郡県制ができましたよね。よね?富春郡が置かれたのもこの時だそうです。このときから正式に、富春孫家と名乗るようになったのだそうです。移動してきたのが孫武の次男の孫明だと言われるので、一応富春孫家の始祖は孫明、となるということです。楽安孫子の奔流は楽安に残ったらしいです。富春孫家は富春龍門孫家とも呼ばれます。
その後) 孫家の分裂はさらに続きます。
富春孫家が分裂し、移動してここで太原に移住した孫氏と、もっと遠くまで移動する孫氏になります(←細胞分裂みたいだ;)。ちなみに移動する孫家は清河と汝に落ち着いたそうです。
オチ) 流れな〜が〜れ〜て〜い〜つか〜♪結局、楽安孫家の一族は、分裂しまくって福建省まで行きましたそうな。
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