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零つる刻
2009.12.31.
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   三国志小説をサンプルとして公に晒し作者のモチベーションを高めるページです。原稿用紙328枚分ある小説の冒頭部分です。


   八尺に届きそうな背丈とは不釣り合いな、未だあどけない顔の男は歩を止め足元を見る。
   視線の先に疎らに零(お)つる栗があり、秋の到来を報せていた。
   その元を探そうと、面を上げると老木が視界に入る。顔を左右に振ると、四方が牆垣で囲まれている所が見え、それが冷たく強い北風から守っているようだった。
   若い男が近付くと、老木の表層に亀裂が入っていることを知る。もしかするとすでに害虫が巣くっているのかもしれないと感じ、男は眉を顰める。

   南の門を通じ外へ出て、歩いていると、男の先に見知らぬ年二十強の男が立ち止まっており、こちらを向いている。男が歩を進めてもその視線が外れることが無く、待ち構えているようだった。
   待ち構える男は、ゆったりとした褐色の単衣に全身を包み、腰の左には刀が帯びられている。その頭を覆う黒い幘の上には鉄の梁一本が天を向き、それが一梁進賢冠と呼ばれる縣の高官を表す冠だった。同じく腰からは黄色の長細い綬が垂れ下がっており、それも高官であることを示す。その高い地位とは裏腹に従者が一人も居ない。
   歩く若い男が怪訝に思っていると、突如、立ち止まる男は腰を前へ曲げ頭を下げる。それが粛礼だと気付き、反射的に若い男はその場で膝を地に着け、腰と同じ高さに頭を下げ、拝礼を返す。再び面を上げる際、頭に手をやり幘の位置を整える。
   視界にある待つ男の口は開く。
「縣府に行きたいのだが、道に迷ってしまった。出来れば案内を願いたい」
   官吏は仰ぎ見て言った。
「諾(はい)、喜んで。僕に着いてきてください。縣府まで同行します」
   若い男は謙称の「僕」と共にそのまま向きを変えず歩き出し、官吏の脇を通り過ぎた。
   官吏は右横に着くと、若い男の前に一尺の木簡を差し出す。若い男は歩調を緩めず、手に取った木簡を見る。それが名刺であると知り、未だ加冠していない使男(こども)の自分には過分の扱いだと恐縮に感じていた。
   その刺には官吏の姓名が范津であり、加冠に際し付けられる字(あざな)が文淵であると書かれており、加えてここから遠方の地が出身地であり年二十四でありその官職は縣尉であったと記されている。縣尉は縣内で盜賊を取り締まる任に就く最高責任者であるため、驚きを隠せず思わず右を見る。
「汝は誰だ」
   視野に入った范文淵は問うた。
「姓は傅で名は燮と申します。見ての通りまだ加冠しておらず、年十四になります」
   燮と自称する若い男は咄嗟に答えた。
「この縣は長年、叛羌の攻撃に曝されていた所為か、余所者に対する庶人の警戒心が強いようだ。声を掛け初めて八人目の汝でようやく返事が来た。尤も汝は大夫士の子と言ったところでとても庶人には見えないが」
   文淵の話の終わりで燮は笑みを見せた。文淵の言う叛羌とは、燮や文淵の漢人に降伏したがその後、叛乱を引き起こした一部の羌族を指していた。
「それは卿が介者を一人も従えていないからでしょう。いくら官吏の冠や綬を身に着けているとは言え、庶人が警戒心を抱くには充分だと存じます」
   燮の言に文淵は得心した表情を浮かべた。
「その洞察力は驚きだ。それならば知っていると思うが、縣の高官の内、上から三官、つまり縣長、縣丞、縣尉は京師(みやこ)より派遣される。財のあるものは着任する前から自分の介を従えているだろうが、生憎、吾にはそのような財を持ち合わせていない」
   笑みを含み冗談めかしく告げた。
「では高官に着任したこれから先、富を蓄えるのですね」
   燮からの発言に、間を空けず文淵は声を発てて笑った。
「馬鹿言っちゃいかん。高官と言ってもそれは辺境の小縣での官位だ。禄は二百石でたかが知れている」
「その割には随分と楽しそうですね」
   燮は文淵の口から出る悪態より、その活き活きとした表情や勢いある足取りに注意が向いていた。
「ここでは内地の縣尉には無い任務がある。いよいよ己の力を示せる」
   文淵は目を細めた。
「この縣にそのような意欲のある方が尉に着任して下さると、僕としても嬉しく存じます」
   立ち止まり燮は感謝を伝えた。吊られて文淵も止まり、振り返る。そうすると再び燮は話す。
「范卿、ここが縣府となります」
   燮の左手は後方の門を指し示していた。その左手の先を文淵は目で追うと、門を認める。
「わざわざ門前まで案内してくれて有り難く思う。汝とは何れ改めて面会しよう」
   そう言い残し、文淵は門内へと姿を消した。
   文淵が言っていた内地に無い任務のことが心に引っかかりつつも、燮は北風を背にその場から立ち去った。

   日が改まり、冷えた堂の中へまだ東からの陽光が差し込む時、自宅に居る傅燮の元へ客が来たと告げられる。
   家の従者を通じ渡された刺は、予告無しの来客の姓字が范文淵であると報せている。燮はそれが誰か暫く理解できなかったが、やがて昨日、縣府まで案内した相手だと思い出す。
   従者に自ら迎えに行くと告げ、燮は立ち上がり堂を降り、門まで進み出る。門前には昨日と変わらぬ帯刀した官吏姿の文淵が一人だけで居て、燮は礼に則り粛礼し、門内へ招き入れる。
   元居た堂の前の廷へ到ると、主客が東西に分かれ、各々、階を通じ堂へ上がる。互いに拝礼を済ませ、東西にそれぞれ用意された席と呼ばれる敷物に膝と脛を着け踵に腰を下ろし座る。
「突然、来訪して申し訳ない」
   客であり年も立場も上の文淵が口火を切った。
「昨日、確かに面会すると卿は仰っていましたが、まさか翌日に足を運ばれるとは思いも寄りませんでした。しかし、よく僕の居場所が判りましたね」
   燮はまさか自分のような加冠前の者に、縣尉のような高官が訪問に来ると言う、内なる喜びと驚きを隠そうとはしなかった。
「昨日、汝の所作を見て、縣内で名の通った家の者であると直感した。確認のため、縣府で傅氏の年十四の者が居ないか、小吏に訊ねると確かに居ると言う。小吏が示す傅家の場所から考えて、昨日の汝は庠序から自宅へ移動していた、つまり沐浴日だと推測し、今日、傅家を訪ねたが正解だったようだ」
   文淵は一気呵成にこれまでの経緯を語った。その声調には高揚する様子が聞き取れていた。庠序とは年十歳より泊まりがけで師に仕え勉学に励む場であり、偶にある沐浴日に帰宅する。当に燮は沐浴日にあり、わざわざその日に自宅を訪問する文淵の要件が何なのか、強い疑問を持つ。
「そこまでして僕に何の用件があるのですか」
   心中の晴れぬ思いをそのまま口にした。文淵の顔がより引き締まる。
「そう問うてくれると話は早い。実は汝に一ヶ月の間、務めて欲しい仕事がある」
「それは何なのですか」
   文淵の意外な要求に燮は思わず聞き返した。
「昨日の話でも判るように、この縣の者は余所者に対し馴染もうと言う気配が無い。それは縣府に勤める官吏も同じだった。しかし吾の任務は急を要し、適任の人物を探したり育てたりする時間の余裕もない。そこで汝に道案内や交渉の臨席等、吾の介添えをしてもらう案を思い付いた。どうであろうか」
   文淵の眼差しは有無を言わせぬ迫力があった。それでも燮の疑問は解消されず口に出す。
「僕は未だ冠を戴かないため、官吏の任に就くのは不自然に感じられます」
   燮にとって元服していない自分が任務に就くのは過分のことのように思えていた。
「知っているだろうが、京師では陛下の側近くで仕える郎官と言うのがある。それは加冠していなくとも、試験にさえ合格すれば、童子郎として着任することができる。つまり童子であろうと、能力さえあれば縣の官吏として勤められるとのだろう」
   それでも燮の心では未だ疑念が晴れないでいた。
「例え卿が善いと仰っても、他の縣の高官が認め無いでしょう」
   それを受け、文淵は口角の片側を上げる。
「それは心配無い。既に縣長から許諾を頂いている。それに庠序での汝の師にも通達している」
「それならば、僕に断る理由はありません。それに僕は官吏を目指しておりますので、非常に良い経験になります」
   燮はまるで大きな身体で朝日を遮るように立ち上がり、直ぐさま席の無い場に跪き頭を下げ拝する。
「では、早速、吾を案内してもらおう。詳しくは歩きながらだ」
   文淵は小さく返拝し、早くも西の階へ歩んだ。燮は東の階を通じ後を追う。
   二人は並んで傅家の門を出て、一旦、立ち止まる。
「ここ靈州縣は吾ら漢人だけが住むのでは無く、諸種の羌族が雑居する。吾は先ず先零羌の有力者に面会したいと思う。案内して欲しい」
   文淵の初の命令に、燮は思わず眉を顰めた。
「羌族の先零種と一言で表せますが、その種の内側には幾つもの集団があります。人によって、誰が有力か意見の分かれるところです」
「それらの中で、この縣城内に居を構える有力者だけで良い。それでも絞れなければ、先ず汝の独断で決めて欲しい。片っ端から当たって行く」
   燮の発言後、間髪入れず文淵は告げた。それに対し燮は「諾(はい)」と応える。
   二人の居る場所は靈州縣の中心地であり、その一帯の町は防衛の意味もあり城壁で囲まれており、それは縣城と呼ばれていた。縣城の内側は殆ど漢人が居住しており、それとは別に羌族の多くは縣城の外で各種、纏まって居住していた。しかし、羌族の有力者の中には縣城内に住むと言う例外も居た。
   燮の先導の元、二人は城内の道を歩み出す。
「汝はあたかも吾の介のように振る舞えば良い。同席するだけで何も話さなくても良い」
   並び歩きながら文淵は燮に言い聞かせた
「諾、承知しました。しかし、僕が動揺し任務に支障を来さないよう、大まかにこれから何が起こるか教えてくれませんか」
   歩調を合わせた燮は質問を投げた。
「善いだろう。多少長くなるので、心して聴け」
   文淵の前置きに燮は「唯(はい)」と応じた。
「もう汝の耳にも届いているかもしれないが、先月、ここより南方で段將軍率いる軍勢が叛羌を大破し、その際、降羌が四千人にも昇る程だった。既に義從羌が内徙し漢人と雑居しているここ靈州縣にも動揺が出ている。少なくとも京師では見なされている。そのため、義從羌の監視と治安維持の特命を帯び、吾はこの地に派遣された」
   文淵の発言に燮は深く相槌を打っていた。若いがために狭い見識を持つ燮でも南方における叛羌による叛乱を知っており、破羌將軍と言う官職に就く段熲と言う姓名で紀明と言う字の者がその討伐に当たり勝利したのも聞いていた。しかし、その報せが自らが住む縣にまで影響を及ぼすとは、到底、気が回らぬことであった。降羌とは漢人に降伏した羌族であり、義從羌とは漢人の領内に住む羌族であり、もしかするとこれから向かう場所で惨事が起こり得るかもしれないと考えると、燮は緊張で体が強張るのを感じた。
   二人が行き着いた門で、文淵は謁と呼ばれる一尺の木簡を家の者に差し出し、主人との面会を請う。家人が門内へ消えしばらくすると、再び姿を見せ、門内へ案内される。
   幾つかの門や閤を通り過ぎた後、四方を牆垣で囲まれた廷に出る。廷の向こう側に堂が有り、その上の右側に年五十はある男が座っていた。男は服装こそ漢人そのものであったが、頭には何も戴かず、髪を束ねず、所謂、被髪となっており、額は突き出て目は窪み、それらが羌族であると暗示しているようだった。
   やがて堂上の羌族の男は来訪者に気付き、右の階から廷へ降り、二人に近付き、慣れた様子で漢人のように粛し、堂上へ招く。二人は左の階の前で履(くつ)を脱ぎ、堂へ昇り席の近くで拝する。燮は手前に、文淵は奥へ着席する。燮は脛と足の甲から席の奇妙な暖かさを感じる。
「縣尉がここへ何の用件ですか」
   動じた様子は無く、羌族の主人は尋ねた。
「昨日、この縣に着任しましたため、この縣での先零羌の有力者に御挨拶へ伺いました」
   文淵の発言に主人は目を細める。
「それは御足労でした。身(わたし)は自身を卿がお見えになるような有力者だとは思っていませんので、少々、驚いています」
   主人の声も言も平穏そのものだったが、顔色に明らかな歪みがあり何かに怯えているようだった。
「驚きになることはありません。確認のために訪れただけですので…」
   文淵が安心を促す一言を添えても、主人の表情は一向に晴れない。文淵は話を続ける。
「…知っての通り、南方で羌族が叛乱し、先月、ようやく沈静化された。その羌族には先零種も含まれており、念のためこの縣の先零羌に叛意が無いか認めに来たと言う用件もあります」
   それは不安を煽る発言だった。しかし、主人の顔により焦る様子もより厳しくなる様子も燮は感じられないでいた。それどころか落ち着きを取り戻しつつあるように見えている。
「身が知る同族には誰も叛意を抱いていません」
   主人は淡々と告げた。
「発言だけで信用できるとお思いになるのですか。どうすれば縣府が確信を得るか考えて頂きたい」
   文淵の発言の後、場に沈黙が訪れる。主人が声を出さない状況を充分に見て取ってから文淵は再び発言する。
「先零羌は縣府の庇護を受け、今までどれだけ安全に互市が行え、どれだけの財を蓄えたか考えたことがありますか。その考えがあれば、縣府の信頼を得るのにどうすれば良いか簡単に思い付くはずです。今、南方の戦闘を終え、ここも含め周辺地域では軍需品が不足しています。やがて縣府は必ず物資の購入に動くでしょう。それは先零羌が物を売る互市に対しても例外ではありません。そこで着任したばかりの縣尉としては安価でそれらを全て購入できればこれ以上の喜びはありません」
   燮には文淵がまるで高位の立場を利用し、漢人と羌族による売買の場である互市にて先零羌が売る物資を縣府が独占できるよう求めているように聞こえていた。文淵が互市の利益を独占、つまり辜榷しようとしているように思えた。燮の心中では徐々に、自分が知らない内に悪事に手を貸しているのではないかと言う疑念が膨らみ、加えて後悔の念が引き起こされ強まっている。
   主人は老いた目を伏せ沈黙を守っている。これ以上、進展は無いと燮は見なし、その後の展開を固唾を呑んで見守る。
「范卿、その先零羌からは既に物資の独占への約束を結んでいます。それ以上、搾り取るのは無理です」
   堂の奥から対面する場へ声が飛び込んできた。文淵と燮は左を向き声の主を目で追う。
   燮の視界に年四十前後の官吏が居た。文淵と同じく一梁進賢冠を戴き腰から黄綬を帯びており、燮はその男が靈州縣で二番目に高い官位となる縣丞であると理解する。そして席に暖かみがあった理由も理解する。文淵と燮が来る前に、縣丞がこの席に座り主人と対面していたと言う理由だ。
「これは趙卿ではありませんか。それはどう言う意味ですか」
   文淵は縣丞の姓を趙と言い、敬称である卿を付け聞き返した。趙と呼ばれた官吏は笑みを浮かべる。
「范卿、もう惚けなくても良いのです。先零羌の手を借り、互市を辜榷しようと言う腹なのでしょうが、それは身が南方の叛乱を利用し、一年以上も前から行っています。卿の着眼点は称賛に値すると思いますが、如何せん身の着任が早かったため、残念ながら卿はこの富を諦めざるを得ないでしょう」
   趙縣丞は言い終えた後、含み笑いを見せた。それに靈州縣の暗部を見て取ったと感じ、燮は絶望の淵に落とされた心地で居た。
   文淵は突如、声を発てて笑い出す。皆の注視が集まったところで口を開く。
「全く残念ではありません。卿が見つかるまで先零羌の主人を何人も訪ねるつもりでいましたが、初めの訪問で卿に会えたのですから」
   文淵の意外な発言に趙縣丞は疑念の目を向ける。
「辜榷が目的では無く、身に会うのが目的だと仰りたいのですか」
   縣丞の問いに文淵は「唯」と応え、その場で立ち上がり語句を紡ぐ。
「吾の任務はこの靈州縣の治安維持です。ここより南方で叛乱した先零羌が先月、段將軍により討伐され、表立っては平穏を得ましたが、水面下では辺境の広範囲に渡って不穏な動きがあると言われています…」
   燮はそこで一旦、間を置いた。縣丞は眉間に皺を寄せたままだ。主人は立ったままの賓客相互の会話を冷淡に見つめている。燮は次に来る文淵の発言に僅かな希望を見出そうと自ら言い聞かせている。
「…そう言った状況の中、靈州縣まで来てみると、逆に不穏な動きがあると見られている弱みに付け込んで、羌族から不当に搾取している漢人が居ると耳にしました。縣府に到り、不審な動きをする官吏を密かに探すと、一ヶ月に一度、行く先不明な外出をする者が居ました。今日がその外出日だと知り、吾はその行為を確かめるため、その者と同じ行動を起こしたと言う訳です」
   文淵が語句を発する度に、縣丞の顔色が悪くなっていく様だった。
「口から出任せを言うのでは無い。汝も同罪であろう。それに新任の汝の証言と一年も着任している我のとでは、縣長はどちらを信用するか」
   縣丞は語調を荒くして言を吐いた。文淵は口角を上げる。
「勿論、縣長には事前に連絡済みです。それに悪事が漏れない様に介を一人も連れてきていない卿と違い、吾は証人として介を一人連れて来ています…」
   そう言って、文淵は燮の方へと振り返り、手で指し示す。燮は頷く。文淵は向き直り続ける。
「…何よりも、ここにいらっしゃる主人を初め、今まで不当な搾取を受けていた先零羌が有力な証人となって下さるでしょう。それに今まであった互市における利益の損失が無くなるのであれば喜んで証人となって下さるでしょう」
   文淵の発言の直後、主人は笑顔で「諾」と応じた。縣丞は顔を紅潮させる。
「上告したければするが良い。我はこんなちっぽけな縣での地位など惜しく無い。京師に後ろ盾のある我に刃向かうとどうなるか、范文淵よ、よく考えておくが良い」
   そう言い残し、履(くつ)を堂上で擦りながら趙縣丞は文淵と燮の前を通り過ぎ、西階から降り、廷を横切り外へと出ていく。
   趙縣丞が去ったのを認め、文淵は再び席に戻り、主人に拝してから話し出す。
「この度は縣丞が汝に迷惑を掛けた。今後、このようなことが無いよう努める」
   文淵は声と体で謝意を示した。主人は返拝する。
「卿にはとても感謝しています。身の衆だけでなく、靈州縣に居を定める羌族の多くが不当に安い価格、いえ、実質、物資の搾取に苦しんでいました。それが絶たれるとなると卿には感謝してもしきれないでしょう」
   それまで無表情を保っていた主人は満面の笑みを浮かべていた。何事にも動じなかった文淵の顔は隠しようもない照れを浮かべている。
   その後、二、三回、言を交わし、二人はその家宅から離れる。他方の羌族の有力者への訪問に向かう中、文淵は燮に声を掛ける。
「吾によるあれだけ明らかな辜榷を求める行為だったのに、汝はよく口出しせずに居られたな」
   笑みを向け文淵は感心した様子を見せた。
「別に卿を信じ黙した訳ではありません。余りにも予想外な経過に動けなかっただけです」
   燮の発言に文淵は声を発てて笑う。
「何はともあれ、良い結果となったようだ」
   歩きながら、文淵は右手で燮の左肩を叩いた。しかし、ある疑念に囚われ、燮の気は晴れず、やがてそれは質問の形で出そうとする。
「最後に縣丞は『京師に後ろ盾がある』と仰っていましたが、どのような意味なのでしょうか」
   燮の発言に文淵の歩調が緩まる。やがてその場に立ち止まり、文淵は胸の前で両腕を組む。
「汝に話すかどうか迷うところだが、汝は官吏を目指すと言っていたな。ならば、今後のためにこれから吾が言う事実を良く聴いておくのだ」
   文淵の告知に燮は間を置かず「唯(はい)」と応じ、続きを促す。
「縣丞は吾と同じく確かに京師より派遣された者だ。しかし、その異動には陛下の御意向以上に大きな意志が効いている。それは宦者と呼ばれる者等だ…」
   文淵は燮の顔色を伺い一呼吸、置く。「宦者」とは皇帝の側近くに仕え、高官でも無い通常の官吏が立ち入ることができない省中へも出入りできる者だ。その理由の一つとして、宦者と呼ばれる者は皇帝の妻妾を孕ませる可能性のある生殖器が後天的に取り除かれた男だからだ。京師の状況に疎い燮でもそれぐらいは認識している。
「…知っての通り、宦者で在る故に陛下に近付きやすく、またその高官ともなると陛下による官職の任命に進言できる権限を持っている。宦者は子孫を残せない所為か、返って自らの宗族に対する孝行心が強くなる傾向にあるようだ。何を告げたいかと言うと、つまり、縣丞はその親族に当たる宦者の趙忠の意向が強く反映し、今の地位を得たと言う訳だ」
   「趙忠」と言う姓名を文淵が口にするとその語調に嫌悪感が露わになっていた。
「そんなの不公平です。本人の功徳で高官に選び挙げられるべきです。そうで無いと功徳のある者が登用されなくなってしまいます」
   燮は文淵の発言を遮ってまでも声を挙げた。
「その通りだ。しかし、現実の全てがそうなってはいない。京師での趙忠のような一部の宦者や高官は自らの父兄、子弟、婚親を官吏として郡や縣に送り込み、まるで自らの手足の如く横領や辜榷を行わせ、今回のように異族だけで無く多くは百姓から財利を貪っている。勿論、それらを上告し正そうとする動きが官吏の中にもあるが、依然、不正が横行している」
   文淵の淡々とした説明に、燮は出す言を失い俯く。それを見て取り文淵は片眉を挙げる。
「官吏を目指すならば、汝はそう言った実状を覚悟しなければならない。どうだ、考え直すか」
   その発言に燮は面を挙げる。
「とんでもありません。それならば僕が高位になりその体制を変えるまでです」
   燮は目元に力を入れた。文淵は急に力を抜き微笑む。
「その意気だ。だが、意欲だけで無くもっと視野を広く持たなくてはならない。単に現状を悪だとし、それを唯、闇雲に攻撃するのではなく、根本を見なくてはならない…」
   燮は文淵の発言に己の考えの至らなさを感じ取り、思わず目を伏せる。
「…何故、そのように京師から方々の州郡へ自らの父兄や子弟等を送り込むか判るか」
   文淵の質問に再び燮は面を挙げる。
「偏に財利によって自らの親族を繁栄させようと願ってのことでしょう。当人にとってそれは孝行なのかもしれませんが、だからと言って見過ごせないと存じます」
   今度は文淵が考え込むように視線を外し、歩き出す。燮は不安げに並んで足取りを追う。十歩以上進んでから、前に顔を挙げる。
「そうだ、汝の言う行き過ぎた『孝行』こそ問題なんだ。汝も知っているとおり官吏へ選用する制度に『孝廉』と言うのがある。これは各郡の長たる太守が自らの郡内から年間二十万人に一人を推薦する制度だ。文字通り『孝順』かつ『廉清』である人物を推薦するものだ。一部の宦者や高官は『孝順』であるかもしれないが、『廉清』では決してない…」
   燮の記憶には確固と「孝廉」があった。何故ならば、孝廉の制度こそが燮の目指す高官の第一歩だったからだ。それを念頭に置くと、なおさら廉清で無い高官等を許せないで居た。
   文淵の眼差しはさらに上へ向けられ、鱗雲の浮く空を仰いでいる。
「…叛羌が群れ乱を為す根本を辿れば、それは『孝順』なのかもしれない。各自がそれぞれ所属する宗族、引いては種族が直面した危機を回避すべく、已むを得ず武器を取る。先程の主人を初め、ここ靈州縣に居を定める羌族も甘んじて縣丞の辜榷を受けていたが、不満が限界まで溜まれば、いつ叛乱を起こすか判らない。さぁ、今から羌族の不満を一つ一つ解きほぐしに行こうではないか」
   文淵の発言を承け、燮は前を確固と向き、先導すべく寒風の中、歩調を早めていた。


   進賢冠を戴き単衣で身を包む八尺の若い男は地に零(お)つる栗を手に取ろうと屈み込む。
   幾つもの針が指先に触れる前に手を止め、熟した色が無いのを目で認める。そこから実が成る木を仰ぎ見る。
「卿卿(あなた)、こんな所に居たんだ」
   男が右へ振り向くと、そこには年二十前程の腹の膨れた女が居た。笄が付けられ長く艶やかなのを想像させる束ねた髪に、細く長い眉が周囲に印象を残していた。男は立ち上がり体も向ける。
「この縣を出る前に、この若木を見ておきたかった」
「これは庠序の廷に昔あった木の子だったわね」
   二人は並んで、木を仰いでいた。
「もう庠序にあの木はとっくに無くなっているが、その子はもう実を付けるほど、傅家の邸宅で立派に育っている。京師から帰ってくる頃にはもっと大きく育っているだろう」
   男の発言に女は突発的に一笑する。男は顔の表情で疑問を呈する。
「卿卿は栗の若木に自らを重ねているのでしょ。もうすぐこの子も生まれますし」
   女は疑問に答え、自らの腹をさすっていた。男は微笑み返す。
「この木の苗を庠序から頂いて以降、この傅燮は加冠し、『幼起』と言う字(あざな)を父から授かった。そして汝のような才識兼備な者を妻に娶り、もうすぐ子も生まれる」
   傅燮と自らの姓名を言う男は右手でそっと自らの妻の腹に手を遣り、満足げに頷いた。
「そう言った意味もあるけど、年二十の卿卿が京師に赴くのだから、これこそ『実り』じゃないかしら」
   男の妻は自らの腹に置かれた男の手に手を重ねた。
「ここ靈州縣を含む北地郡の人口は二万人弱であるため、三年に一人しかこの郡から孝廉が推挙されない。それに選ばれ京師へ出仕できたのは非常に名誉なことであり、非常に幸運だった」
   傅幼起と言う姓字の男は興奮気味に告げた。
「それは卿卿の努力の賜なんじゃないかしら。傅家での寡婦になった嫂や孤児になった侄(おい)を卿卿が奉じたり養ったりする程に、孝順で廉清だと言うことは郡内で轟いているんだから」
   幼起の妻は胸を張った。幼起は照れつつも、突然に遠い目を見せる。
「そう言う孝行を示せるのは、郡縣の平穏があってのこそ。もう異動になられたが、これも六年前からの范卿を初めとする官吏等の努力の賜だ。近くで大きな叛乱が起こらなかったのも恵まれていた」
「ここで力を抜かないでくださいね。卿卿が日頃から仰っているように、京師には何が潜んでいるか判らないんだから」
   その一言で幼起は咄嗟に右に視野を向ける。そうすると自らの妻が真摯な眼差しを見せている。
「六年前よりそこに元凶があると聞いていて、その時より我の覚悟は出来ている。それに、影があれば光があるように、京師には少なからず范卿のような廉清の大夫士が居るだろう。だから心配するな」
   妻の視線を幼起は笑顔で受け止めた。さらに妻は笑みで返す。
「では、そろそろ行きましょう。まずは京師まで到達しないと」
   妻の発言に幼起は「諾(はい)」と応え、南に向かって歩み出す。妻はそれに続く。
   門を出る前に幼起は振り返り、冷たい中での若木の姿を見納めていた。


   壁のない南からの陽光を浴びつつ、暦の上ではもう梅が咲いても良い頃なのにやはりどれも蕾ばかりだった、と傅幼起はぼんやり思っていた。
   少し前に幼起は後堂の塵を払う前に盤から水を播いており、その手をまだ冷たく感じている。加えて、敷物である席の上に座っていても、その下の堂から寒気が伝わって来ており、春の遠さを実感していた。
   幼起は後堂で一人、冷気漂う中、先生を待っている。幼起と同じ弟子らはまだ来ていない。幼起は年少であるため、誰よりも早く来て後堂を掃除していた。今日が初めての受業だが、誰かに教わらずともこうやって少者たる準備を行える。それも偏に幼起が故郷である靈州縣の庠序と仕来りが同じであるからだ。
   幼起の身長は八尺あり座っていてもその姿が目立ち、さらには成長するに順い、表情に威容が出てきており、公の場では衆目を集めることも多々あった。しかし、そう言った経験も忘れるほど、幼起は緊張感を抱き、自らの身体が縮こまっている心地で居た。
   やがて幼起は堂下の廷から爽やかな音色を耳にする。即座にそれが腰に佩びる玉が衝牙に当たる音だと判り、誰か廷からこの堂上に向かって来ると知る。幼起の視界に他の弟子らと思わし者が入り、その者は西階を昇り、後堂へと上がってくる。その服装は幼起と同じく門下生らしく上下一繋がりの懐の大きな単衣を纏い頭髪全体を覆う黒色の幘を基本とした一梁進賢冠を被っている。ゆっくりと落ち着いて幼起は席から立ち上がり、知らぬ年上の弟子に対し、膝を堂上に着き右手を上に両手を前に出し、頭を下げ腰と水平にし、つまりは拝する。堂に昇った弟子は拝し返し、その後、幼起の隣に座る。それを最後まで見守る前に、佩玉の音と共に別の弟子が堂に上がり、拝し合う。随時、その繰り返しとなる。
   弟子らは年長である程、堂のより奥、つまり先生が座る独坐により近い位置に座る。これにより幼起は年を把握し得た。先生に最も遠い所に座る幼起は年二十二だ。妻子もあると言うのに、この塾では最年少となる。
   それはここに集まる者等が各地の庠序や京師たる雒陽城にある太學で名を上げ、選ばれた者等だからだ。幼起はこの特異な年齢構成にそれを実感していた。そうなったのもこの塾の先生は侍講の身分、つまり皇帝の師でもあるからだ。先生の姓名は劉寬であり、文饒と字(あざな)し、年五十八で現在は臣下の元首たる三公の一人に当たる太尉に着いている。
   それ程まで高い地位にある先生だが、旅先で亭傳に休息しては当地の諸生に講義する程に気さくな面がある。そのため、当初は来る者を拒まずで何回かに分けた受業の場を設けようとしていたが、昔からの弟子等が先生の体を気遣って、ある程度の人数に絞り込んだと言う経緯がある。そう幼起は聞いていた。
   先生の劉文饒が座る独坐の前には細長い席が三つ敷かれてある。最も遠い位置に横に置かれている席の左側に幼起が座っており、今、幼起がちらりと右をみて数えてみるとその席には自身を含め六人が座っている。残り二つの席は左右に縦に敷かれており、数えるとそれぞれ九人が座る。つまり弟子は二十四人居て、先生程の地位ならば千人以上の弟子が居ても可笑しくは無い程だ、と人数の少なさを何故か幼起は残念に思えていた。
   私語は誰の口からも発せられないものの和んだ雰囲気だったが、唐突に場が緊迫する様を幼起は感じる。佩玉の音が廷側から聞こえる。皆の顔は一様に東側へと向けられる。吊られて幼起もそちらへ顔を向ける。そうすると東階前で初老の人が居た。三梁進賢冠を戴き、紳(おび)からは長い紫綬を垂れ下げ、その冠と綬からその人が大尉の劉文饒であると幼起は知った。後堂に上がるのを見計らい幼起は席から外れ拝する。他の弟子たちが同じく一斉に拝した動きに幼起は奇妙な感激を覚えていた。
   文饒は拝し返し、優雅に小股で歩き、履を脱ぎ、独坐に座る。皆、書冊を広げ手に取る。通常の受業ならば、年長から順に誦えていくため、今、どの辺りなのか、探し出さなければ、と幼起は身構える。
「傅幼起よ、今日が初めてだったな」
   劉文饒からの第一声は幼起自身の姓と字だった。幼起は驚き、書冊から顔を上げ呆然と劉寬を見返す。
「唯(はい)、その通りです。燮にとって今日が初めての受業です」
   幼起は文饒の発言を心で復唱し、謙譲の意で自らの名の「燮」で自らを称し、ようやく答えた。
「我が塾のことを知っているだろうが、ここに居る門下は何れも各地で名を上げた者だ。しかしながら、どれだけ名を上げようと残念ながら我の耳に届くことは困難だ。そこで初めてここで顔を見せたものには挨拶がてら我の質問に答えて貰う慣わしだ……良いか」
「唯、何なりと…」
   突然の文饒の突然の言い出しに幼起は返事を捧げるのがやっとだった。
「では幼起よ、汝に訊こう。我等は何者だ」
   文饒の口から出た質問は漠然としたもので、幼起にはとても捉えられそうにないものだった。文饒は相変わらず穏和な表情をしており、幼起の視界に入る弟子たちは誰もが澄ました顔をしており、まったくその質問の意図すら掴めないで居る。
「…我等は陛下に仕える者たちです…」
   幼起は閃くままに歯切れ悪く言を口にした。陛下とは即ち皇帝のことだ。文饒は表情を変えない。
「確かにその通りだ。だが、我はそこらにいる馬や犬、それに豚と我等がどう違うのか知りたい」
   文饒は五十を越えているとは思えないような純粋な眼を幼起に向けた。その悪意の無さに幼起は己の落ち度をひしひしと感じ、急ぎ、自問自答で記憶の中から言葉を探る。
   どうして今の我等が成り立っているのか。何も一晩で成り立った訳では無く、かと言って太古の昔から今までずっと同じだった訳では無いはずだ。そう幼起は考え、そこに答えの糸口を見出す。つまりは今の我等と獣がどう違うか、その答えは人の成り立ちを話せば先生に納得して貰えると幼起は見込む。
「何も今の我等が上古よりこうだった訳ではありません。文字が無かった時代のことは今日まであやふやにしか伝わっておりませんが、それでも共通した言い伝えが残っております。例えば『韓子』が記すに上古では人が獣より少なく、人が獣に勝つことは無かったのですが、有巣氏が木を構え巣を作ることを広め、獣から害を受けることは無くなりました。その後、草木の実、蚌や蛤を食べ病にかかる者が後を絶たなかったとのことですが、燧人氏が錐揉みし火を採り食材を調理することを広め、それが改善されました。また『易經』によると太昊氏の伏羲は天に象を仰ぎ観て地に法を見下ろし観て鳥獣の文を観ることで八卦を描き、『淮南』に記されるに、軒轅氏の黄帝は日月の行律と陰陽の気を治め四つの時を区切ることで律暦の数を正し、また、黄帝の史官である倉頡は鳥の足跡を視ることで書を創ったと言われています。つまり、これら天子や聖人が現れる以前はもしかすると我等は今より獣に近い存在だったのかもしれません」
   幼起は声を出す度に軽く興奮を覚え自信を持ち、その発言はどんどん力強さを持つようになっていた。まだ冷気を帯びる季節だと言うのに体から汗を吹き出している。その熱意は幼起から見て効果的に効いたように見え、文饒の顔に喜色が表れたように見え、弟子等が幼起に一目、置いたように見えていた。
「なるほど、そこから説明したか。それだと太昊と黄帝の間の炎帝が抜けている点は不自然に感じるな」
   文饒は幼起に一言、放った。幼起は急所を射抜かれ自信を砕かれた心地になり、慌てて付け足そうとまた記憶から言を探る。
「その通りです。『淮南』だと、炎帝神農氏は土地の乾湿、貧富、高低に応じた五穀の種蒔きを民に教えました。つまり農業のはしりです。それどころか百草の美味や水泉の甘苦を確かめたと言われています…」
   幼起にはまだ言い忘れている点があると言う気にあり、文饒の発言を待たず再び口を開く。
「…また他にも人は鳥獣に無いことを多く有しますが、燮が最も顕著だと思うことは『礼』です。それも上古の代から有った訳ではありません。孔子が述べるに、周は二代、つまり夏や殷を鑑みて、礼文が盛んになったため、周に従う、と。つまり、礼は夏や殷を経た後、周で大成しました」
   文饒の顔を見据えたまま幼起は言い終えた。手応えを感じた。
「『小戴禮』にある、凡そ人の人たる理由は礼義である、と言いたいんだな」
   また文饒の一言で幼起の答えの至らない箇所を指摘された。居たたまれなくなり幼起は面を伏せる。それに反し文饒は感心の声を上げる。
「今までの弟子らの多くは同じ質問でそこに行き着いた。しかしながら、汝は今までに無い興味深い道筋でそこに行き着いた…」
   意外な展開に幼起は面を上げ、文饒の発声を待つ。
「…だが、ここからは人によって違う質問になっていく。では何故、我等はその礼の優れた周代に留まらなかったのだ」
   またも文饒は濁りっ気の無い双眸を幼起へ向けた。幼起は眉間を寄せた顔を返す。
「留まらなかったのでは無く、留まることができなかったと言うのが正確でしょう。民の父母たる天子と雖も何時かは衰え、次代の天子に譲る時が来るものです。その慣わしは上古の代から変わらない事実でした。そう言った天子の移り変わりには法則性があり、これを見極めるのが肝要となります。『易經』によると帝、つまり天子は東から出るとのことで、東方は木徳に対応しますから、これは上古の伏羲が木徳王であることを指します。伏羲は建号を太昊氏としました。やがて没し、建号を神農氏とする火徳王の炎帝に天下は引き継がれました。続いて土徳王である軒轅氏の黄帝、金徳の金天氏の少昊、水徳の高陽氏の顓頊、木徳の高辛氏の帝嚳と言った流れで再び木徳に戻ります。つまり天下は木、火、土、金、水と移り変わり一巡する法則性があります。その後、火の陶唐氏の帝尭、土の有虞氏の帝舜と続きます。次の金の夏禹は夏后を建國し、金徳は次に移らず金徳のまま世襲されました。やがて夏后が衰え、帝桀の世で水徳の湯に放伐され、天下は湯が建國した殷商となり、水徳のまま世襲されました。やがて衰え帝紂の世で武王に放伐されました。木徳の武王は周を建國し、同じく世襲し、その間、前言した通り夏后と殷商を上回る礼が大成しましたが、周は衰えました。その後、大いなる断絶があり、火徳王である高祖が天子となり、天下を有する号を漢としました。高祖から今上帝まで、呂后と王莽を除けば、二十四世、続いています。漢代、つまり今の代において、礼は再興され、周代にも比肩できるものと信じております」
   最後まで力を抜くこと無く幼起は熱く語っていた。言い終えた後、歴代の弟子には負けていないだろうと言う自尊が幼起の胸から湧き出ている。幼起には弟子等がこちらを羨望の眼差しで見ているような錯覚も見て取った。
   文饒はにやりとする。
「だとしたら、今の火徳は何れ土徳に移り、漢も亡くなると言うのだな」
   文饒は悪戯する童子のような憎めない笑みを浮かべた。待って居たとばかりに幼起は口から準備した語句を出す。
「唯、勿論、今の漢も亡くなる日が来るでしょう。その時に燃え尽き灰になるように火徳を失い、灰から土徳を生み出すでしょう。しかし、それはまだまだ先の話です。現在の漢は燃える勢いが増すばかりであり、それを弱らせる水も風もありません」
   今までに無い程、幼起の自信を漲らせていたが、意に反し文饒は目を伏せ、溜息を着いていた。真っ先に幼起は自ら失言したのではないかと疑う。そう思った次の瞬間には文饒はいつもの表情を幼起に向けている。
「時代の流れはよく判ったが、では場所はどうだろうか。塞外にいる群衆は我等と同じ者だろうか。礼を持たない異族が多いぞ」
   文饒の疑問に、幼起は気付かれないよう深呼吸し、考えをまとめる。
「本質的には我等と同じです。ただ未だ礼を知らないだけでしょう。將来的に我等の一員と言えるようになると考えられます。なぜならば、『小戴禮』王制には、天下は西の流沙、南の衡山、東の東階、北の恆山の内側となる方三千里と書かれていますが、『書經』禹貢では方五千里とあり、それぞれ夏后以前の天下と殷商以後の天下を述べたものであり、即ち天子の徳とそれに伴う礼の及ぶ範囲が上古に比べ広がっている証拠であります。現在、この漢の天下は方万里であるため、これからも広がり続けると思われます。『呂氏春秋』によると、方三千里だった頃の天下は、その内側では冠を戴き帯を締め、舟車が通じ、通訳は不要だったと言いますが、現在ではより広い方万里でこのような状況になっています。つまり、時代を経るに従い、辺境の異族は徐々に天子の徳に感化され、恩威の及ぶ範囲が拡大し、いつしか四夷と我等の区別が付かない程になるのではないでしょうか」
   幼起は自らの信念をそのまま口にした。劉公ならば理解してくれると信じたからだ。心なしか劉文饒の表情が厳格なものになったような気がした。
「汝の言いたいこと、信じていることは判った。しかし、ここは塞外どころか、辺境からもほど遠い京師だ。こんな温々した所で綺麗事は何とでも言える。今の代になって天子の徳に四夷が靡くことよりも我等と四夷とが殺し合うことが多かった。実際、汝がそんな辺郡に立ち、諸々の問題に直面した時に同じように言い切れるか」
   文饒の言説が幼起に向けられたものとは思えず、まるで今の代に向けられたように感じていた。幼起は八年前に故郷の靈州縣で初めて問題の一端に触れ、辺郡だけに留まらず京師たる雒陽城の奥にある省中に起因する状況を思い出し、内心でその根深さを再び痛感していた。
「それは…」
   考えが纏まらない内に焦り答えを出そうとした時、幼起の目に右の掌を翳す文饒が映った。その迫力に思わず幼起は語句を詰まらせる。やがて文饒は重い口を動かす。
「今、答えることは無い。その答えは汝がこれから先じっくり探し出せば良い。多くの書には答えそのものは載っていないが、手掛かりは無数にあるはずだ。多くの書を読み自らの血肉とし、過ちやしくじりを犯さないように言語を慎み行動するのだ、これが師から言えることだ」
   劉文饒はそう言って問答を終わらせた。切迫した状況から解放されたことで幼起は心底、安心した。その後、後堂はどこの塾とも変わらない光景が広がる。書冊を年長から順に誦えていく。声にされた字を追わないといけないと思いつつも、幼起は自らの胸で先ほど劉文饒から発せられた語句が重くなっていくと強く感じていた。我が辺境の領地を統治する任務に就いたとし異族が進寇した場合、どう対処するのか、そう言った自問が何度も心に浮かび、取り留めのない纏まらない自答を繰り返す。
   幼起自身の番が回ってくれば書冊を誦んで、そつなくこなしたが、その受業では始終、劉文饒の語句に囚われていた。

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