三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3866】三サポ板20周年記念 単騎...[0]  /  【3863】地名の班氏・&#29387...[2]  /  【3855】三国志ファンは今どこに?[6]  /  【2854】2007年7月29日(日)三国志...[31]  /  【92】自己紹介[44]  /  【3851】周瑜の先祖 周興さん[0]  /  【2244】太史慈の命日について[3]  /  【3838】雑号将軍らの開府に及び幕...[8]  /  【3829】なぜ曹操は渡河を試みたの...[2]  /  【3833】『三國志 周瑜傳』出版[1]  /  

【3866】三サポ板20周年記念 単騎先駆オフ会(2023...
紹介  清岡美津夫 WEB  - 2023/5/9(火) 22:01 -

引用なし
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   こんばんわ、管理メンバーの清岡(きよおか)です。
このサイト「三国志ファンのためのサポート掲示板」は2003年5月16日にスタートしましたので、来る2023年5月16日に20周年を迎えます。
…と5周年のとき [#T3095] のコピペをしたのですが、すでにこのサイト、当掲示板はアーカイブの役割の方が強くなってますので、参加者が集まらないでしょうし、いらっしゃったとしてもその調整も難しそうですので、以下のように企画してみました。

三サポ板20周年記念 単騎先駆オフ会
・「オフ会」としながら「会う」ことを前提としないイベントです
・参加希望者は、電子メールやDMなどで参加希望日を教えてくださると、折り返しの返信にて非公開で希望日の滞在時間を電子メールやDMでお教え致しますので、ご自由に参加して下さい。
・それぞれ1時間半〜2時間ぐらいを考えてます。
・依然「ご時世柄」、対面に責任が大きく伴うので、特にお店に予約はしない予定です。
 (※そのため満席等、お店の都合で簡単に中止になります。また当然、お店に問合せはできません)
・当然、参加者は主催の清岡のみ、となる可能性が大きいので、需要があれば第2弾開催も視野に入れています。

日程・場所:
 2023年5月19日金曜日夜 大垣 時re風
 2023年5月20日土曜日日中 横浜 関帝堂
 2023年5月21日日曜日日中 神戸 Cha-ngokushi
 ※どこも三国志とは関係あるでしょうけど、当掲示板と無関係なのです。

当掲示板で[#?オフ会]と検索すると、映画「レッドクリフ」鑑賞会とかあったね、と。参加してなかったんで、記憶にはありませんが、懐かしい感じがします。

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【3863】地名の班氏・狋氏・尸氏などの...
教えて  かりんとう  - 2022/1/31(月) 12:08 -

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   三国時代の地名を調べており、その中で〜氏という地名を複数見かけ、固有名詞ではなく何か接尾辞として一般的な意味があるのでは?と思ったのですが検索しても分かりませんでした。
何かヒントになるものでも分かる方がいらっしゃればお聞きしたいです。

↓ちなみに自分で調べてみた地名に接尾辞的に使われている字と意味(厳密に合っているかは自信はないですが)

邑:城壁に囲まれてない政庁所在地
聚:政庁所在地ではないが家の集まった所
陂:坂または堤
津:河川の渡し場
水:大河ほどの規模ではない河川
澤:湿地
澗:渓谷
郷:自治的な性質の行政区画で郷官が置かれている、亭が集まった区画
亭:自治的な性質の行政区画で亭長が置かれている、里が集まった区画
里:自治的な性質の行政区画で里正が置かれている、100戸ほどで区切った区画
陽:南側が低い傾斜の土地
陰:北側が低い傾斜の土地

【3864】Re:地名の班氏・狋氏・尸氏など...
お答え  清岡美津夫  - 2022/2/6(日) 6:20 -

引用なし
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   こんにちわ。
『続漢書』志十九郡国志一から確認していくに氏のつく県名は[糸侯]氏、皮氏、端氏、盧氏、輪氏、楊氏、元氏、尉氏、乘氏(侯國)、己氏、平氏、表氏、[シ玄]氏、猗氏、茲氏、班氏、[けものへん示]氏、沓氏、他にも[ネ'者]氏聚、高氏亭、雍氏城と見え、「氏」は何かの地理的な区分を示すものではないようですね。ただ河東郡端氏県の注を見ると「史記曰、趙・韓・魏分晉、封晉端氏。」とあるんで、それぞれ人名に由来する地名かもしれませんね。

今、議論が進んでいるかもしれませんが、聚については今思いつくのが、塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間−漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて−」(『法政考古学』第30集記念論文集(20031105)pp.89-106) http://cte.main.jp/newsch/article.php/1121 が参考になるかと。

津については[#2881]でも書いたように関所的役割があるようですね。

一旦これで投稿いたします。

▼かりんとうさん:
>三国時代の地名を調べており、その中で〜氏という地名を複数見かけ、固有名詞ではなく何か接尾辞として一般的な意味があるのでは?と思ったのですが検索しても分かりませんでした。
>何かヒントになるものでも分かる方がいらっしゃればお聞きしたいです。
>
>↓ちなみに自分で調べてみた地名に接尾辞的に使われている字と意味(厳密に合っているかは自信はないですが)
>
>邑:城壁に囲まれてない政庁所在地
>聚:政庁所在地ではないが家の集まった所
>陂:坂または堤
>津:河川の渡し場
>水:大河ほどの規模ではない河川
>澤:湿地
>澗:渓谷
>郷:自治的な性質の行政区画で郷官が置かれている、亭が集まった区画
>亭:自治的な性質の行政区画で亭長が置かれている、里が集まった区画
>里:自治的な性質の行政区画で里正が置かれている、100戸ほどで区切った区画
>陽:南側が低い傾斜の土地
>陰:北側が低い傾斜の土地

【3865】Re:地名の班氏・狋氏・尸氏など...
 かりんとう  - 2022/2/14(月) 22:11 -

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   清岡美津夫さん返信ありがとうございます!

>それぞれ人名に由来する地名かもしれませんね
>何かの地理的な区分を示すものではないようですね
漢文は詳しくないですが「封晉端氏」は、晋が端氏を(この地に)封じた(ためここは端氏と呼ばれた)、という解釈でいいのでしょうかね。
なんとなくそうなのかなとうっすら思っていましたが、人名由来っぽいということで理解しておきます。

>津については[#2881]でも書いたように関所的役割があるようですね
これは知りませんでした、教えて頂きありがとうございます!

>[糸侯]氏、皮氏、端氏、盧氏、輪氏、楊氏、元氏、尉氏、乘氏(侯國)、己氏、平氏、表氏、[シ玄]氏、猗氏、茲氏、班氏、[けものへん示]氏、沓氏、他にも[ネ'者]氏聚、高氏亭、雍氏城
自分ではここまでリストアップできなかったので、見て驚きと嬉しさがありますね。
そういえば沓氏は遼東を調べた時に目にしたなぁー、としみじみ。元氏や皮氏も并州方面にあったような、他も見たことある気がするなぁ、と思いに耽れる字面でした。

余談になりますが、なぜ細かい地名を調べているかというと自分で細かい地名の入った三国志ゲームを作ろうとしているのです。
生きてる内に本当に完成するのか疑問なペースなんですけどね。

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【3855】三国志ファンは今どこに?
教えて  白崎ゆきと  - 2020/2/2(日) 8:36 -

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   本当にお久しぶり(十年以上)です。

三国志からすっかり遠ざかってましたが、少しは活動出来そうな状況になってきました。
そういう意識でネットを眺めてみたのですが、十年ですっかり変わってますね。

その中で抱いた素朴な疑問が、三国志ファンが集まって賑やかな所はどこ?

そういったことに詳しいと言えば、清岡さんだよな、と質問させて頂きました。
よろしくお願いします。

【3858】Re:三国志ファンは今どこに?
紹介  清岡美津夫 WEB  - 2020/2/5(水) 20:45 -

引用なし
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   とりあえずアカウントを芋づる式に辿っていけば良いかもですね。

・2005年7月31日 サポ板プチオフ会
http://cte.main.jp/sunshi/w/w050801.html

この時のメンバーでアカウントを思いつくのを並べておきます。

・USHISUKEさん
https://twitter.com/USHISUKE

・青木朋さん
https://twitter.com/aokitomo_zZ

・清岡美津夫
https://twitter.com/okakiyo92

【3859】Re:三国志ファンは今どこに?
感謝♪  白崎ゆきと  - 2020/2/14(金) 0:25 -

引用なし
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   丁寧に教えて頂き、ありがとうございました。
ツイッターのアカウント作成と、プロフィール登録ができました。

ただ、これを最後にハンドル名(白崎ゆきと)は廃止し、本名に切り替えようと思います。

Facebookの誕生以降、本名の使用率が劇的に高まりましたし、
妻と子供たちから「白崎ゆきと、って誰? 何で?」と聞かれるのも恥ずかしいので……。


> ・2005年7月31日 サポ板プチオフ会
おぉ、懐かしい! あれから14年も経っているのは驚きです。
さらに、今でも活動を続けられている方が多いのは、ただただ凄いですね。

子育て中のため、時間は掛かりますが、自分もがんばりたいと思います。

【3860】Re:三国志ファンは今どこに?
 清岡美津夫 WEB  - 2020/2/18(火) 22:32 -

引用なし
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   とりあえずおかえりなさいませ。
実生活優先で徐々に体を(?)慣らしていきましょう。
あとフォローをありがとうございます。
ツイッターでは一般使用だとまだまだ実名アカウントが珍しいという認識ではあります。

>> ・2005年7月31日 サポ板プチオフ会
>おぉ、懐かしい! あれから14年も経っているのは驚きです。
>さらに、今でも活動を続けられている方が多いのは、ただただ凄いですね。

この時のオフ会って三国志シンポジウム合わせだったんですよ。その三国志シンポジウムも意味合い的に大東文化大学の枠を越えて三国志学会へと引き継がれ、その三国志学会の関連講座として、3人のうち2人は出演、1人はスタッフってのは三国志受容史で興味深いです

・第4回“三国志”の作り方講座(東京都新宿区戸山2020年2月23日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/5204

と以上のことは試しにこれをツイートしときます(笑

【3861】Re:三国志ファンは今どこに?
 白崎ゆきと  - 2020/2/22(土) 8:57 -

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   >ツイッターでは一般使用だとまだまだ実名アカウントが珍しいという認識ではあります。

色々考えましたが、実名が必要な場面がある以上、使い分けを考えることはストレスにしかならないな、と。

子供が4月から小学校で、親が勉強する姿を見せたいことも、今復帰を決めた理由で大義名分なのです。
ウェブ制作も、どこかで見せておきたいですし。


>この時のオフ会って三国志シンポジウム合わせだったんですよ。その三国志シンポジウムも意味合い的に大東文化大学の枠を越えて三国志学会へと引き継がれ、その三国志学会の関連講座として、3人のうち2人は出演、1人はスタッフってのは三国志受容史で興味深いです

結局、行動する人が未来を変えて行くし、未来を変えた経験が、更なる行動を促すんですよね。

行動しなかった人間が言う内容ではないので、ツイッターではスルーましたが(笑)

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【2854】2007年7月29日(日)三国志学会 第二回大会
ニュ〜ス  清岡美津夫 E-MAIL  - 2007/7/1(日) 10:44 -

引用なし
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   たびたびここの掲示板でも触れられる[#?三国志学会]ですが、その第二回大会(2007年7月29日(日)午前10時〜午後5時)のプログラムが公式サイトで発表されていましたので、下記に引用し紹介しておきますね。


・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

--引用開始---------------------------------------------------------
三国志学会 第二回大会

日時:2007年7月29日(日)午前10時〜午後5時
会場:大東文化大学 板橋校舎 30114教室
   (東武東上線、東武練馬駅下車、スクールバスが運行されています。)
参加費:500円(入会された方は無料です)
三国志学会年会費:2000円

プログラム

会長挨拶

  三国志学会会長 狩野 直禎

報告(午前10時10分〜午後1時)

 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科)
 「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」

 伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)
 「関羽文献の本伝について」

 休憩

 狩野 雄(相模女子大学准教授)
 「建安文学における香りについて」

 松本 浩一(筑波大学教授)
 「台湾における関帝信仰の諸相」

お昼休み

講演(午後2時〜午後4時)

 李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)
 「韓国における三国志演義の受容と研究」

 林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)
 「私の中の三国志」

懇親会(午後6時〜)
 参加費:2000円
 会場:グリーンスポット
(大東文化大学板橋校舎内)
--引用終了---------------------------------------------------------

【3852】三国志学会 第十二回大会(2017年9月2日講...
ニュ〜ス  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2017/8/31(木) 2:00 -

引用なし
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   すっかりこちらで紹介するタイミングを逸しましたが、[#?三国志学会]の大会のお知らせです。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

http://cte.main.jp/newsch/article.php/3978
↑以下、ここからの引用の引用ですが、今年は京都での講演会と東京での大会の開催です。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第十二回大会(東京)
日時:2017年9月9日(土)
場所:早稲田大学戸山キャンパス 38号館AV教室
https://www.waseda.jp/top/access/toyama-campus
参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

プログラム
○石井会長代行挨拶 (10:00〜10:10)

○講演(10:10〜11:50)

 司会:清岡美津夫(NPO三国志フォーラム会員)

 ・梁蘊嫻(元智大学助理教授)
 「『三国志演義』と日本の絵入り本」

○報告(13:00〜16:00)

 ・渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「『古史考』と『帝王世紀』―儒教に即した古伝説の整理」

 ・上田望(金沢大学教授)
 「地域からみる『三国志演義』」

 ・牧角悦子(二松学舎大学教授)
 「三曹の楽府と詩―六朝文学の起点として」

 ・石井仁(駒澤大学教授)
 「曹操の『兵書接要』」

○講演(16:20 〜 17:50)

  講師紹介:仙石知子(早稲田大学講師)
 ・小川陽一(東北大学名誉教授)
 「関帝霊籤と明清社会」

○懇親会(18:00〜)

 早稲田大学戸山キャンパス第10会議室 33号館16階
  一般4000円、学生2000円

※ なお、講演は早稲田大学東洋哲学コースと 共催となっており、無料で聴講できます。

三国志学会 講演会(京都)
日時:2017年9月2日(土)
会場:龍谷大学響都ホール(アバンティ京都9F)
https://www.ryukoku.ac.jp/ryudaihall/access/
プログラム
○ 13:00〜16:00(開場は12:30〜)

 テーマ「私はなぜ三国志を研究するに至ったか?」
  総合司会 竹内真彦(龍谷大学経済学部教授)
 ・佐藤大朗(三国志学会会員)
 ・井口千雪(九州大学人文科学研究院文学部門講師)
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
<sage>

【3853】2018年9月15日(土)三国志学会 第十三回大会
ニュ〜ス  清岡美津夫  - 2018/9/12(水) 7:06 -

引用なし
パスワード
   すっかりこちらで紹介するタイミングを逸しましたが、[#?三国志学会]の大会のお知らせです。今回は東京の早稲田大学のみです。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/


━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第十三回大会
日時:2018年9月15日(土)
場所:早稲田大学戸山キャンパス 33号館3階第一会議室
https://www.waseda.jp/top/access/toyama-campus
参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

プログラム
○石井仁会長代行挨拶 (10:00〜10:10)

○報告(10:10〜10:40)
・三田辰彦(東北大学助教)
「功業か孝道か ――三国両晋楚宋の宗廟における“太祖”の位置づけ――」

○講演(10:40〜12:10)
 講師紹介:伊藤晋太郎(二松学舎大学教授)
・梁満倉(中国社会科学院歴史研究所研究員・四川省諸葛亮研究中心学術委員会主任)
「軍師中郎将諸葛亮の荊州時代」

○お昼休み

○報告(13:00〜15:30)
・伊藤涼(早稲田大学大学院)
「王弼の万物生成論」
・中川諭(立正大学教授)
「イェール大学図書館蔵の『三国志演義』」

〇追悼(15:40〜16:00)
・伊藤晋太郎(二松学舎大学教授)
「沈伯俊先生の経歴と主要業績」
・石井仁(駒澤大学教授)
「狩野直禎先生記念 三国志学会賞の創設」

○講演(16:20 〜 17:50)
 講師紹介:牧角悦子(二松学舎大学教授)
・安藤信廣(東京女子大学名誉教授)
「六世紀から見た『三国志』の時代―歴史の伝説化と文学の継承と―」

※ 講演は早稲田大学東洋哲学コースとの 共催となっており、無料で聴講できます。

○懇親会(18:00〜)
 早稲田大学戸山キャンパス第10会議室 33号館16階
  一般4,000円、学生2,000円
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【3854】三国志学会 第十四回大会(2019年9月14日)
紹介  清岡美津夫 WEB  - 2019/9/12(木) 7:07 -

引用なし
パスワード
   すっかりこちらで紹介するタイミングを逸しましたが、[#?三国志学会]の大会のお知らせです。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

↑以下、ここからの引用です。二場所二日間のときに比べたらすっかりコンパクトになってしまったというか第一回より短いですね

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○石井仁会長代行挨拶 (13:00〜13:10)

○報告(13:10〜15:00)
 高橋康浩(早稲田大学・講師)
 「孫呉政権における徐州人士の動向」
 渡邉義浩(早稲田大学・教授)
 「『三国志』裴松之注と「史」の範囲」

○第二回三国志学会賞授賞式(15:00〜15:20)

○講演(15:20〜16:50)
 吉川英明(吉川英治記念館・元館長)
 「父・吉川英治と三国志」

※ 講演は早稲田大学東洋哲学コースとの 共催となっており、無料で聴講できます。

○座談会(17:00 〜 18:00)
 「吉川英治の『三国志』をめぐって」
  司会 渡邉義浩(早稲田大学・教授)
  パネラー
   仙石知子(早稲田大学・講師)
   USHISUKE(NPO三国志フォーラム・代表)
   袴田郁一(早稲田大学・文学研究科)

○懇親会(18:20 〜 20:00)
 早稲田大学 戸山キャンパス33号館16階 第十会議室
  一般4,000円、学生2,000円
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【3862】三国志学会 第十五回大会(2020年9月13日)
紹介  清岡美津夫  - 2020/8/14(金) 18:08 -

引用なし
パスワード
   [#?三国志学会]の大会のお知らせです。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

↑以下、ここからの引用です。やはりこのご時世、オンライン開催が視野に入っているようでどうするかは9月1日に発表されるようです。また大文化祭なるものも同会場で午前中にかいさいされるそうです。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
日時:2020年9月13日(日)
場所:早稲田大学 小野記念講堂
https://www.waseda.jp/culture/about/facilities/
参加費:500円(入会された方は無料です)
※会員に送付したはがきは、2020年9月13日(土)となっていますが、正しくは、9月13日(日)です。

プログラム
○石井仁会長挨拶 (13:00〜13:10)

○報告(13:10〜15:00)
 柿沼陽平(早稲田大学・准教授)
 「孫呉の郷里社会とその暮らし」
 清岡美津夫(NPO三国志フォーラム)
 「マンガ化される「三国志演義」―横山光輝作品を中心に」

○第三回三国志学会賞授賞式(15:00〜15:20)

○講演(15:30〜17:00)
 岡谷信明(株式会社潮出版社)
 「横山光輝と三国志」

大文化祭 (10:00〜12:25)
○開会挨拶 佐藤大朗

○特別講演
 四葉夕卜 (漫画原作者)
 「『パリピ孔明』創作秘話」

○発表
 佐藤大朗「在野における三国志研究(仮)」
 ほか
○講評 渡邉義浩(早稲田大学・教授)

○閉会挨拶 牛島大介(NPO三国志フォーラム)

・新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染情況により、オンラインで行う可能性があります。対面かオンラインかは、学会HPで9月1日に発表します。
・はがきによるご案内は、今回限りで終了いたします。次年度以降の予定は、学会HP・及びメールでお知らせします。メールを未登録の方は、会費の振込用紙でお知らせください。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
<sage>

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【92】自己紹介
教えて  陸伯議  - 2003/6/9(月) 0:44 -

引用なし
パスワード
   このスレは
初めてここに来た人・みんなに自分のことをちょっと知って欲しい人・三国志について自分の思いをみんなにちょっと伝えたい人etc.
が、ちょっと自己紹介みたいなもの(プロフィール)をかくスレです。
(もちろん詳しく書いても良いです。でも三国志についての思いなど熱く書き過ぎて長くなり過ぎないように注意!もっと熱く熱く語りたいんだったら新スレを立てて。)

皆さん、これからの交流のために自己紹介を!!!(笑)

【3567】今、三国志に題材を取った小説を書いてます
紹介  清水  - 2010/1/14(木) 6:34 -

引用なし
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   ・歴史が世界史日本史問わず大好きで、三国志も当然、その範ちゅうに含まれます。
・中学校時代に図書館で少年倶楽部を読んだのが切っ掛けで、文筆業を熱望するようになり、娯楽小説で生計を立てられるようになりたいと思っています。
・今は呂布と貂蝉を主軸に後漢末を舞台にした娯楽小説を書こうかと思っている所です。
・私は劉曹孫の三家や関張等、その他のどの登場人物達にもましてこの二人が好きです。呂布も貂蝉も凄い人間的でまっすぐな人格のように感じられるからです。
・三国志や三国志演義で語られる様々な理屈や理念をそぎ落とした時に、一番まっすぐに生きたのはこの二人であるように思われるのです。
・好きとはいえ、広く浅くの一部としての知識に過ぎないので、皆さんに比べれば遙かに浅学なので、お教えを請えればと思っております。今後ともよろしく。

【3706】Re:自己紹介
 鳳頼英知 WEB  - 2011/10/20(木) 4:25 -

引用なし
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   三国志ファンの方々
はじめまして
鳳頼英知と申します

僕は三国志と出会ってからずっと呉のファンで
9月から無料WEB連載漫画「美周郎」の連載を
スタートいたしました!

歴史漫画と言うよりは少年漫画の冒険物みたいな感じですが
良かったら読んでやって下さい

壮大な音楽に乗せたプロモーション動画は必見です!

下記URLで無料で公開しています

http://bishuro.org/

動画はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=GfraWbwc6a4

よろしくお願いします

【3795】こんにちは!
 赤眼鏡  - 2014/3/24(月) 18:58 -

引用なし
パスワード
   今日からこの掲示板に参加させて頂きます、赤眼鏡といいます。
学校の図書館にあった三国志の小説をよんで、すっかり大ファンになってしまいました。
三国志ファンの皆さんと語り合えるのを楽しみにしています!どうぞよろしくお願いします!

【3796】Re:自己紹介
 トト  - 2014/4/27(日) 15:35 -

引用なし
パスワード
   はじめまして!!トトと申します
演義しか読んだことはありませんが、いつか原本を中国語で読んでみたいと思っています!!

孫権と張昭の絡み可愛すぎて好きです((腐w
好きな人物は張角かな。

とりま、よろしくです♪

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【3851】周瑜の先祖 周興さん
 ムゼ  - 2017/8/20(日) 21:51 -

引用なし
パスワード
   こんにちは。以前にもお世話になりました。
その節はありがとうございます。

今回は、周瑜の先祖、周興さんについて
です。
後漢書の周栄伝の中に登場しています。
文章に巧みで尚書郎になっています。
まではつたない私の解読力で追えたのですが、
中国サイト(初心者レベル解読力、しかも見失い)で見かけた歴史演義ゲーム織り交ぜたらしい
人物エッセイのなかで周興さんは地震計を作った張衡さんの
同僚ではないかと。確かに張衡伝の中には周興という名前のひとはでてくるのですが、この方は周瑜の先祖の周興さんと一致すると考えていいのでしょうか?
周瑜が天文気象知識に詳しい要因の一つにもなるかと思うと胸熱です。
先達の皆様よろしくお願いします。

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【2244】太史慈の命日について
   - 2006/2/27(月) 19:41 -

引用なし
パスワード
   どなたか太史慈の命日を知っている方は居ますか?
色々なサイトを回ってみたのですが一向に見つかる気配がなく、
ここに書きこまさせていただきました。
どなたか知っていらっしゃる方が居たら教えてください。
お願い致します。

【2246】Re:太史慈の命日について
 呂珪 WEB  - 2006/3/1(水) 1:46 -

引用なし
パスワード
   緑さんはじめまして。私なぞがお答えしてよいか迷うところですが、さしあたり。

太史慈の伝は『三国志』呉書巻四にあり、それによると「年四十一にして、建安十一年に卒す」 とあるので、ここから生没年は西暦166年〜203年、ということが解ります。しかし緑さんがお探しの命日となると、申し訳ありませんが史書に書いていないので解りませんとしかいいようがありません。命日が史書に記されるのは通常皇帝くらいなものです。ただ呉大帝孫権は四月としか記されていませんが、このあたりは『三国志』自体の成立問題とかかわってくるので今回は割愛。
つまるところ家臣クラスでは生没年が解るだけで儲けもの(有名どころでは趙雲が生年不詳ですね)なんです。
また諸葛亮や周瑜の命日(こちらでも熱く議論しておられましたね)というものはよく言われますが、何れも史書以外のソース(『演義』等)が元なので、その信憑性は言わずもがな…。

というか、全く答えになっておらず申し訳ありません(汗)

【2874】孫権の忌日
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2007/8/5(日) 8:13 -

引用なし
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   >ただ呉大帝孫権は四月としか記されていませんが、

古い記事なのですが、気になるところがあったのでフォローしておきます。

今日は司馬懿の忌日で、そういえば、サポ板の方にも忌日関連の書き込みがあるな、と読み直していました。
そこで行き着いたのがここのツリーです。以前、とあるサイトで孫権の忌日の話が紹介されていたことを思い出し(多分、そこの慣習に沿うとリンクしない方が良いのでしませんが)、この書き込みをフォローしておきます。

三国志呉書呉主伝

(太元)二年(西暦252年)春正月、立故太子和為南陽王、居長沙;子奮為齊王、居武昌;子休為瑯邪王、居虎林。二月、大赦、改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福、表亡去。夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。


三国志呉書諸葛恪伝

翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。至吾父子兄弟、並受殊恩、非徒凡庸之隸、是以悲慟、肝心[土己]裂。


中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]によると、西暦252年4月16日は確かに「乙未」です(念のため確認)。

というわけで4月16日(旧暦)は孫権の忌日のようですね。

【3849】Re:孫権の忌日
追記  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2016/4/29(金) 2:53 -

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   結局、当時の私は思い込みで中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]を見ていたのでは?という結論ですが、9年近くの時を超え訂正です。

・呉下の凡愚の住処
http://ameblo.jp/ancyon/

・東呉大帝孫権の命日
http://ameblo.jp/ancyon/entry-12154100528.html


・ア団 (Vitalize3K) on Twitter
http://twitter.com/Vitalize3K

・Twitter / Vitalize3K: 「最後になりますが『建康實録』には「(神鳳元年)夏四月乙未,帝崩於内殿」と記載され、『集解』には「潘眉曰:呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未,乃二十六日傳文脱二字也」とあります。ですので16日ではなく26日だと考えてます。
...
http://twitter.com/Vitalize3K/status/725690134247526400

多分、当時、『三国志集解』を持ってなかったんで、それに当たるという基本が私になかったと。ちなみに『三国志』巻四十七呉書呉主伝の「時七十一」の集解部分が「權疾困召諸葛恪孫弘滕胤呂據孫峻屬以後事見諸葛恪傳」とあり、特に日付のことがかかれてないのですが、上記四番目のリンク先にあるように、巻六十四呉書諸葛恪伝の「今月十六日乙未」の集解部分が「潘眉曰呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未乃二十六日傳文脱二字也」とあり、神鳳元年四月の十干十二支の乙未が二十六日なので、諸葛恪伝で「二」の字が抜けているとのことです。


▼清岡美津夫さん:
>>ただ呉大帝孫権は四月としか記されていませんが、
>
>古い記事なのですが、気になるところがあったのでフォローしておきます。
>
>今日は司馬懿の忌日で、そういえば、サポ板の方にも忌日関連の書き込みがあるな、と読み直していました。
>そこで行き着いたのがここのツリーです。以前、とあるサイトで孫権の忌日の話が紹介されていたことを思い出し(多分、そこの慣習に沿うとリンクしない方が良いのでしませんが)、この書き込みをフォローしておきます。
>
>三国志呉書呉主伝
>
>(太元)二年(西暦252年)春正月、立故太子和為南陽王、居長沙;子奮為齊王、居武昌;子休為瑯邪王、居虎林。二月、大赦、改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福、表亡去。夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。
>
>
>三国志呉書諸葛恪伝
>
>翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。至吾父子兄弟、並受殊恩、非徒凡庸之隸、是以悲慟、肝心[土己]裂。
>
>
>中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]によると、西暦252年4月16日は確かに「乙未」です(念のため確認)。
>
>というわけで4月16日(旧暦)は孫権の忌日のようですね。

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【3838】雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
教えて  まりもこ  - 2015/10/9(金) 0:00 -

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   知識レベルは正史に興味があってネットで調べてる程度のニワカです。
残念ながら素人レベルでは細かいところがわからなかったので詳しい方に質問させていただきたく参りました。
※「雑号」「将軍府」「開府」「給料」「俸禄」「俸給」らのキーワードで検索しました
今回の質問は、後漢末の将軍府についてです。

まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
問題はその下の雑号将軍らです。
朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。

Q1, 後漢末の雑号以下の将軍らは開府できたのか?

第二に開府できた場合の幕僚の人数(規模)と俸給です。

上のHPによると大将軍と驍騎将軍〜四征将軍らとは規模が違いますよね。
となると下位になると縮小される気がしますがその場合は誰が残るのでしょうか。

Q2、(雑号将軍らが)開府できた場合の幕僚にいる役職は何か


最後に将軍府の俸給についてです。(わりと基本的すぎる質問かもしれませんが)
後漢書光武帝紀の李賢注や後漢書百官志から見るに、給料は毎月金銭(後漢末から三国はインフレしちゃうので絹と思いますが)と穀物を半分(か割合は変化したか)ずつもらっていたと思うのです。
問題はどこで誰が渡すのかがピンとこないのです。

Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)

Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか

以上です。よろしくお願いします。

【3843】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
 まりもこ  - 2015/10/10(土) 22:17 -

引用なし
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   ありがとうございます!
袋でもってかえり木曷の内容で分配みたいな形だったんですか・・・なるほど勉強になりました。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>>
>>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>>
>>以上です。よろしくお願いします。
>
>Q4についてですがここでもたびたび出てくる(というか私が引いているのですが)籾山明『[#?漢帝国と辺境社会]』(中公新書 1999年)のp.122によると、前漢の辺境の下級官吏についてですが、佐原康夫「居延漢簡月俸考」(『古史春秋』5号、朋友書店1989年)を参考文献に、「まず俸給は食糧と同じく、支給を受ける側の代表が支給する機関(都尉府もしくは候官)まで出向いて受け取った。」とし、その一例として木簡の「第廿候史良、詣官受部吏奉。三月乙酉平旦入。」という文を挙げています。さらにp.123で「こうして受け取った俸銭は、袋に入れて各部へ持ち帰られた。次に引く一枚は、そうした月給袋に付けた[木曷]であろう(図25)。」とあります。
>
>※[木曷]について書かれた文字について
>--引用開始-----------------
>    候史吏已取
>呑遠部 呑北燧長為已取 今取三千六百
>    萬年燧長已取
>--引用終了-----------------
>
>三国は漢代の制度をある程度引き継いでいますので、(特別変更の理由もなければ)今回の場合もおおむねこんなところだろうと思います。
>
>※居延漢簡については下記サイトで検索可能
>・文物圖象研究資料庫 全文檢索
>http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
>※関連記事
>http://cte.main.jp/newsch/article.php/413

【3844】Re:遷偏將軍營下督
 まりもこ  - 2015/10/10(土) 22:21 -

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   私が勘違いしちゃってたみたいですね。すみません。
となるとやはり将軍と開府は純粋には紐付けされてなく、基本的には個別に開府儀同三司の権限を授けられるというのが正式な形みたいですね。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>前々回はとりあえずの投稿で失礼いたしましたが(おまけに私は後漢末を呉とミスリードしているっぽいですし)、質問の前提部分に立ち戻らせていただきます。
>
>>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>>問題はその下の雑号将軍らです。
>>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>ここの部分ですが、『三国志』巻五十六呉書朱績伝の
>
>遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。
>
>の部分でしょうか?
>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、この文を素直に読むと「偏将軍の営の下の督に遷った」ってことで、「府」とは書かれておらず、明確に「営」、つまり軍営をさしているかと思います。
>
>営について [#3476]
>
>質問の本筋から離れるためアイコンを「雑談」といたしました。

【3845】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
雑談  R・F  - 2015/10/14(水) 0:31 -

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   清岡さん
いつも的確な回答ありがとうございます。
私も同様の疑問を持っていたので、勉強になりました。

で。私も俸禄についての素朴な疑問があと一つあります。便乗するようで申し訳ないのですが、ご教示いただけるとありがたいです。

疑問というのは、「閏月」のある年の俸禄はどうなっていたのか、ということです。
年俸を13分割して払っていたのか? それとも1ヶ月分は特別予算として計上して、他の月と同じ額を払っていたのでしょうか?
高級取りの上級官僚はともかく、下級の吏や兵などは少ない給与を13分割されたら暴動を起こしかねないような気もするのですが。かといって、13か月分を払うと、単純計算で予算が約8%増えます。

どうなのでしょう?

▼まりもこさん:
>ありがとうございます!
>袋でもってかえり木曷の内容で分配みたいな形だったんですか・・・なるほど勉強になりました。
>
>▼清岡美津夫さん:
>>こんばんわ。
>>
>>>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>>>
>>>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>>>
>>>以上です。よろしくお願いします。
>>
>>Q4についてですがここでもたびたび出てくる(というか私が引いているのですが)籾山明『[#?漢帝国と辺境社会]』(中公新書 1999年)のp.122によると、前漢の辺境の下級官吏についてですが、佐原康夫「居延漢簡月俸考」(『古史春秋』5号、朋友書店1989年)を参考文献に、「まず俸給は食糧と同じく、支給を受ける側の代表が支給する機関(都尉府もしくは候官)まで出向いて受け取った。」とし、その一例として木簡の「第廿候史良、詣官受部吏奉。三月乙酉平旦入。」という文を挙げています。さらにp.123で「こうして受け取った俸銭は、袋に入れて各部へ持ち帰られた。次に引く一枚は、そうした月給袋に付けた[木曷]であろう(図25)。」とあります。
>>
>>※[木曷]について書かれた文字について
>>--引用開始-----------------
>>    候史吏已取
>>呑遠部 呑北燧長為已取 今取三千六百
>>    萬年燧長已取
>>--引用終了-----------------
>>
>>三国は漢代の制度をある程度引き継いでいますので、(特別変更の理由もなければ)今回の場合もおおむねこんなところだろうと思います。
>>
>>※居延漢簡については下記サイトで検索可能
>>・文物圖象研究資料庫 全文檢索
>>http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
>>※関連記事
>>http://cte.main.jp/newsch/article.php/413

【3846】Re:遷偏將軍營下督
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/10/24(土) 12:19 -

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   こんにちわ。

>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、

というわけで、本筋とはあまり関係なく、棚卸しですが、

・三国時代の都督制(『創文』2007年6月号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/659

上記のリンク先で触れましたように、後漢末(というより曹操の下)での初期の都督は「憲兵の職」の意味合いがあるそうで、この呉書の場合の「督」でも軍営での「憲兵の職」の意味合いが強いのかな、と愚考しておりました。

・『三国志』巻十五魏書賈逵伝注所引『魏略』
是時大將軍雖有禁令、而芻牧者多。故孚因此夜到、以鼓一中、自稱都督、歴北圍、循表而東、從東圍表、又循圍而南、歩歩呵責守圍將士、隨輕重行其罰。

・『通典』巻一百四十九 兵二 法制「魏武軍令」
吾將士無張弓弩於軍中。其隨大軍行、其欲試調弓弩者得張之、不得著箭。犯者鞭二百、沒入吏。不得於營中屠殺賣之、犯令沒所賣皮。都督不糾白、杖五十。


▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>前々回はとりあえずの投稿で失礼いたしましたが(おまけに私は後漢末を呉とミスリードしているっぽいですし)、質問の前提部分に立ち戻らせていただきます。
>
>>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>>問題はその下の雑号将軍らです。
>>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>ここの部分ですが、『三国志』巻五十六呉書朱績伝の
>
>遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。
>
>の部分でしょうか?
>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、この文を素直に読むと「偏将軍の営の下の督に遷った」ってことで、「府」とは書かれておらず、明確に「営」、つまり軍営をさしているかと思います。
>
>営について [#3476]
>
>質問の本筋から離れるためアイコンを「雑談」といたしました。

・ツリー全体表示

【3829】なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
 酒井  - 2015/4/4(土) 8:36 -

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   こんにちは。久々に投稿させていただきます。

とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。

荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。

当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。

個人的には以下の理由があったのかなと思います。
1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。


と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。


曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。

【3830】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
多分…  R・F  - 2015/5/12(火) 0:18 -

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   ▼酒井さん:

浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。


一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。

本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。

後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。

では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。

良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。

まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。

やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。

>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
>
>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
>
>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
>
>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>
>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
>
>
>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
>
>
>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。

【3835】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
 MK  - 2015/6/30(火) 19:41 -

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   >2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。

そういう考えはあったと思います。実際江陵への急行は成功しました。
又、年齢による焦りもあったと思います。


「武帝紀」には、
公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負けいくさとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。
と簡潔に記されているのみです。

演義の派手なストーリーはハ陽湖の戦い(朱元璋vs陳友諒)がモデルだと言われています。
赤壁の戦いは実際にはさほど規模が大きくなかったと思います。

荊州は7つの郡:南陽郡、南郡、江夏郡、未開発の南方4郡からなっておりましたが、
劉表亡き後の荊州争奪戦の一環として赤壁の戦いを捉えるのが宜しいかと思われます。
荊州には戦乱を避けて避難していたよそからの移住者と、地元出身者との間で意識の違いがありました。
魏は、劉砲鮃濾「気札献腑Ε茱シ襪抜楚綢亟澆瑠莨襪鮖拉曚靴泙后」
文聘の士官により、最大の人口を有する南陽郡の住民を安堵させました。
地元の豪族にとってはそもそも劉表自身(エン州山陽郡出身)がよそからの移住者で、良く統治してくれる為政者なら誰でも抵抗はありません。

但し、曹操は徐州での大虐殺で評判を落とし、魯粛、糜竺、諸葛亮をはじめとする徐州出身者に限っては無条件に敵視されています。
徐州出身者と、劉キを支持していた勢力は劉備を支援します。
劉キと関羽は漢水系の水軍を編成して要衝 夏口に向かうことに成功します。
劉備、趙雲、張飛、諸葛亮らは江陵へ向かい、守備兵と長江系の水軍を傘下に収めようと試みますが、
曹操軍の軽装騎兵が急行し、道中蹴散らされ失敗します。
(もし曹操が急がなければ、劉備軍は江陵を拠点にできたはずでした。)

曹操はさらに夏口の南東に位置する、銅貨幣などの生産地である湖北省銅緑山を支配下にする事を欲します。
そのためには長江を渡らなければなりません。

賈ク伝には、
今はまだ危ないが、数年、農産に励んで軍備の増強に努めさえすれば、
そのときにはもう、軍を出すまでもなく、向こうのほうから降伏して来ざるを得ないだろうと進言したことが記されています。
(参考までに、曹操は屯田制度を確立し、兵糧を安定的に生産する体制が優れていました。)

賈&#35425;は客観的に正確な状況を把握する能力に優れているので、
たとえ疫病が蔓延しなくても、曹操にとってそもそも不利な情勢だったのでしょう。

江陵確保に失敗しこれから荊州南部を経営して勢力を充実させたい劉備勢力にとって、
長江南部まで進出され、貨幣生産地まで奪われるのは致命的です。

恐らく曹操自身が長江を渡る戦いを指揮したと思われますが、負けて撤退しました。ただ、さほどの大軍は投入していなかったと思いますし、
疫病が流行さえしなければ、複数の路から侵攻する作戦を立てられたでしょう。
また、余り長く都を空けておくと反乱等が生じるという事情もあったかもしれません。留守を任せられる器量に一番すぐれた息子が死んでいます。

疫病が大流行した船は、人を載せるには使えないのでひとまとめに隔離されたでしょう。その中には官吏士卒の重病人が放置されたかもしれません。
焼かれるがままになったことでしょう。
また、南郡、江夏郡北部の住民で飢え死にしたものも多かったでしょうから、
赤壁の戦い後には相当数の遺体が散乱した凄惨な状況になったことでしょう。


▼R・Fさん:
>▼酒井さん:
>
>浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。
>
>
>一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。
>
>本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。
>
>後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
>実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。
>
>では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。
>
>良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
>後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。
>
>まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
>疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
>これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
>孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。
>
>やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。
>
>>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
>>
>>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
>>
>>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
>>
>>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>>
>>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
>>
>>
>>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
>>
>>
>>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。

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【3833】『三國志 周瑜傳』出版
 蒼井悠人 WEB  - 2015/6/16(火) 18:32 -

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   先日『三國志 周瑜傳』を出版致しました。

しかしながら、誠に申し譯ないのですが、現在iOS端末(iPhone・iPad)には對應してをりません。いま原因を調査していただいてゐるところです。

ただし、Kindle、PC、Mac、もしくはAndroid端末をお持ちの方はアプリを入手してもらへれば、購入して讀んでいただくことができると思ひます。詳しくは下記商品ページにてご確認ください。

それではどうぞよろしくお願ひ致します。

『三國志 周瑜傳』(投稿エラーを防ぐためにURLは切り離してゐます)

http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%80%E5%91%A8%E7%9

1%9C%E4%BC%9D-%E8%92%BC%E4%BA%95%E6%82%A0%E4%BA%BA-

ebook/dp/B00ZO5LQW2/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1434446417&sr=1-1

【3834】Re:『三國志 周瑜傳』出版
 蒼井悠人  - 2015/6/20(土) 17:18 -

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