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▼みうみうさん:
>もちろん、劉備が皇帝になってからは、「漢」と言っていたことは知っています。
>
>その前、劉備が益州に地歩を占めたとき、そして漢中王を名乗ったときです。
>自分たちの勢力を、何と呼んでいたのでしょうか。
>「漢中王」であれば「王」なので、国号があったはずです。
>で、まだ漢皇室は健在なので「漢」とは名乗れなかったはずです。
>
>どういっていたのでしょうか。
えーと、さらっと見てみましたが、自分たちの勢力をなんと呼んでいたか、見あたりませんでした。
もうちと、探すのを続けるとして、今回は私のイメージを語りますね。
後漢で、王がいる國(国)というと、日本国とか国家の意味じゃなくて、まず、行政単位の國を連想します。
参考:http://cte.main.jp/sunshi/w/w030421.html#kuni
皇族の者が相続で郡レベルや県レベルの土地を与えられるってやつです。
例えば、陳郡に王がいると、陳國って呼ばれますし、そこの王は陳王って呼ばれますね。
ただ、今回の場合、三国志蜀書の先主伝によると、土地は、漢中(郡)、巴(郡)、蜀(郡)、 廣漢(郡)、[牛建]為(郡)と、五つのところにまたがっているので、劉備たちがこのルールに自分たちを当てはめていたかどうか不明です。
それに、配下に多くの将軍がいる、王というのは、後漢の陳王やら下[丕β]王やらからは想像しがたいですし。
もし当てはめていたら、漢中とか漢中國とか呼んでいたんでしょうか(汗)
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