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こんにちは、むじんです。
> 何が言いたいのかと言うと、曹操が拘束されて連行された先の
>県令は、楊原だったのかどうか?、その可能性はあるのか?ということ
>です。
任峻が楊原を河南尹に擁立したというエピソード自体が眉唾ものなので難しいと思います。
当時、正規の河南尹は朱儁でしたが、朱儁は関東諸将と通謀していたので董卓の襲撃を恐れ、官職を捨てて荊州に退去しました。これは長安遷都以後のことです。董卓は朱儁に代わって楊懿を尹に任じますが、朱儁の巻き返しにより楊懿は逃走します。朱儁は引き続き河南尹中牟に駐屯しましたが、董卓死後も河南尹を称し続けています。
つまり、任峻は「董卓を討伐する主唱者がいない」と発言したり、楊原を尹に擁立する余地がないということになります。詳しくは『三国志集解』をご覧ください。
> 県令が楊原なら、そこには任峻もいた可能性もあるわけで、任峻が曹操の
>配下になる前から、二人は知り合いになっていたという想像もできます。
>さらに想像を加えて、曹操を救った功曹というのが、任峻や張奮の仲間
>(あるいは、彼ら本人)なら、任峻が死んだ際に曹操が大泣きした理由も、
>より納得ができるのです。
名士豪族が互いに交流することは当時ごくごく普通に見られたことなので、楊原の件がなくとも、曹操と任峻が以前から顔見知りであったとしても不思議ではないです。
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