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むじんさん、ありがとうございます。
>典韋伝では一貫して都尉または校尉とだけ記されます。ところが斉王紀は彼を武猛校尉と呼んでいて、本伝中、単に校尉と書いてあっても実際には武猛という号を冠していたと考えられるわけですね。そうすると都尉のときもそうだっただろうし、許チョについても同じことが推測されます。
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>典韋が校尉に昇格した時期は分かっていませんが、196年ごろと考えていいのではないでしょうか。
斉王紀確認しました。確かに武猛校尉と書いてありましたが、許チョの名が出ていないのはどうしてかな・・・とか思います(個人的に)
うろ覚えで申し訳ないのですが、太祖の高陵か何かに関連した記述で、典韋がいるのに、許チョがいなかったところがあるのですが・・・。確か荀イクも漢臣として入っていなかった記述のところで・・・今、見つけきれなかったもので。
(・・・于禁が壁画を見た頃は、陵の壁画になるんですよね? 位牌が後に移されていますが、棺などはそのまま安置されていたということなのでしょうか?)
許チョは曹家三代に愛されていましたし、彼自身の名が出ないのは名誉を嫌った為なのか、他に理由があったのか・・・とか、色々考えて不思議に思っています。ファン心理の勝手な想いなのですが、よろしければこの辺りも教えて下さい。
※典韋の校尉昇格は196年頃なのですね。このスレッドの賊討伐の功績で昇進した可能性もありますね・・・。
質問ばかり恐縮ですが、どうかよろしくお願いします。
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