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まだ、返信レスを使用すると「書き込みに失敗しました」と表示されるので、新規投稿致します。(【1727】Re:孫堅が劉表を攻めた理由について)の続きです。
黄虎洞さん
ご返信ありがとうございます。
『190』です。
>当時の状況を色々推測して自分なりの姿を描き出すのは楽しいことです。
なるほど!そうだったんですね!
自分が正史三国志にはまっている理由が、改めて分かりました。
>最初の義挙が上手く行かないと、彼等はそれぞれ自己の支配権が及ぶ州に依拠して自己勢力の安定と拡大に務めます。
そうですね!それは、当時の群雄の行動と言動から分かりますね!
[行動から分かる群雄]
・袁術:江南や徐州を攻略し、勢力を拡大しようとした事
・劉表:荊州赴任後、勢力を拡大していく様子
・公孫サン:自分で州刺史を任命し、実行支配する為、戦争を起している姿
[言動からわかる群雄]
・袁紹:曹操と天下を取る方法について語り合っている箇所
・曹操:荀イクの事を「ワシの子房」と、なぞらえている発言等
>当時主立った人は大概州刺史の地位を持っております。刺史であれば、その州を中心にして自己勢力の養成が可能になります。曹操が偉くなっても刺史職を手放さなかったり、劉備が後生大事に豫州刺史を持っていたのは、その州に関する限り、行政・軍事などの権限を自由に使えるからです。しかも後漢王朝から与えられた地位です。
この事は、当時後漢王朝から与えられた地位の人物には、その与えられた役職より低い職を任命できる権利を有していたと理解してよろしいのでしょうか?
例えば・・・
・後将軍(袁術)は、雑号将軍を任命できる。
・後将軍(袁術)は、空位の刺史(豫州)を任命する事ができる。
(以下は、正式に朝廷から任命されていない孫堅がおこなった事ですが・・・)
・破虜将軍(孫堅)は、偏将軍(徐コン)を任命する事ができる。
・豫州刺史は、揚州の九江郡太守(ヘイ祉)を任命できる。(時期は不明ですが・・・)
→朝廷からの正式な辞令を受けている・受けていないの差はありますが、要は上位の役職者はそれより下位の役職については、何かしらの手続きさえすればそれぞれの任命が可能になると理解して問題ないでしょうか?
もし、当時の後漢朝廷における任命権についての詳細、またはそれらを記載している書籍・論文等ご存知でしたら、教えて頂けませんでしょうか?
以上、よろしくお願い致します。
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