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清水さんへ
熹平三年は、西暦174年ですね。
呂布の生年は、正確には分かりませんが、延熹4年(161)以前ではないかと私は勝手に考えています。これは劉備の生年です。
なぜなら、『三国志』呂布伝の注に、呂布が劉備のことを「弟と呼んでいた」とありますし、呂布自身が、第三者に向かって「劉備は私の弟」と発言している記述があるからです。死の真際には劉備のことを「児」と罵っていますが、これは主に年下の相手に使う罵語の「竪子」(小僧)と同義です。
また、張飛伝に「関羽が数歳年上だったので、張飛は実の兄に対するように接した」とあるように、義理の兄弟は、当時もやはり年齢の上下で兄か弟かを決めていたと考えられます。
よって、呂布は劉備より年上ではないかと推測されます。
ただ、どれくらい年が離れていたかは分かりません。
劉備の生年は、延熹4年(161)です。
したがって、呂布が生まれたのは、少なくとも劉備の生年である延熹4年(161)以前ではないかと考えられます。
以上から推測しますと、初平二年(191)ですと、呂布は大体30歳過ぎぐらいですね。また、建安三年(199)に刑死していますので、享年は40歳前後だと推測します。
これは、呂布が当時の社会の慣習(長幼の序)に従っていたことを前提にしています。董卓と義理の親子となっていますので、一応、この慣習は守っていたのではないかと思います。熹平三年(174)の方だと、享年は20代半ばですので、そちらの方がより劇的かもしれません。
メモ
曹操(155〜220)
呂布(161以前?〜199)
劉備(161〜223)
※呂布が曹操より年上か、同年か、年下かは分かりません。
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