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今正史の「劉封伝」をちょこっと見たところ、
「関羽は樊城・襄陽を包囲して以来、劉封・孟達に軍兵をくりだして、
何度も救援してくれと呼びかけたが、両名は『山中の郡が従属したばかりなので、
動揺を与えてはいけない、と断り、たまたま関羽が敗北を喫した為、先主(劉備)はこれを恨んだ。」
とあります。
さらに続くと、
「前から両名は互いに反目しあっていて、仲が悪く、劉封はやがて孟達の軍楽隊を没収した。
孟達は(恐らく関羽の)罪を恐れたうえに劉封に対して、憤怒と怨みの念を抱き、
かくて、先主に上表して別れを告げ、軍勢を率いて魏に降伏した。」
とあります。
以上のことから、
関羽は常々上庸の劉封・孟達に援軍の要請をしていたが、
上庸を平定したばかりなので動揺を与えてはいけない等、
何かと理由をつけ、援軍の要請を断っていた。
表面上は"上庸を平定したばかりなので動揺を与えてはいけない"だが、
内面では劉封との不仲、降伏したばかり(219年に降伏)の申耽、申儀や、
その元配下の兵の謀反が気にかかっていたのかもしれません。
(孟達は中々の知者だと思われるのでなにか謀反の兆候や申兄弟の国に対しての忠誠のなさ等を感じていたかもしれません。)
以上が援軍要請拒否の理由推測です。
他の事(上庸の兵力(正規軍、降伏軍)・関羽の兵力)は劉封・孟達の事が載っている、
ページを見たかぎりでは分かりません。
関羽のことは、載っているページ数が多すぎるので後で全部調べたいと思います。
あとサイトですが調べてないのでお役に立てません...すみません。
関羽の事ですが伝記を見ると(要約します)
「関羽の娘を孫権の息子に嫁がせたいと話、拒否されます。(多分)その後、
干禁を降し、ホウ徳を斬った所で曹操は(司馬懿・蒋済の献策)孫権に、
関羽の背後を突くように要請をし、その頃から関羽は、麋芳・博士仁が、
全力を挙げて救援しないため『帰ったらお前達を処罰しないとな』と関羽が言った所、
ひどく恐れ、孫権の離反要請を受けてしまいました。
後方を遮断され、妻子を捕らえられ、前方には徐晃が現れたため、敗北を喫した。
後退するも、臨祖にて子の関平とともに殺された」
とのことです
長くなり、さらに推敲をしてないので読みにくいところもあるかもしれません。
その際はご指摘ください。
至らぬところはどなたか援軍を頼みます。
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