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近年ますますアーカイブ化している当掲示板なので、
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▼如墨委面さん:
>明帝曹叡は文帝曹丕の子ではなく、袁紹の次男、袁煕の子だという説があるそうですね。
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>明帝崩御の記事(明帝紀魏志第三)
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>(景初)三年春正月丁亥(一日)…、帝崩于嘉福殿、時年三十六。……
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>の後で、裴松之は次のように言っています。
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>臣松之按:魏武以建安九年八月定[業β],文帝始納甄后,明帝應以十年生,計至此年正月,整三十四年耳.時改正朔,以故年十二月為今年正月,可彊名三十五年,不得三十六也.
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>臣松之が按ずるに
>魏の武帝(曹操)は建安九年八月に[業β]を平定し、文帝(曹丕)は始めて甄后を娶ったから、明帝は(建安)十年に生まれたことになるが、この年の正月までを計算すると三十四年しかならない。この頃、改暦があり、故年の十二月を今年の正月にしているので、これを計算に入れても三十五年にしかならず、三十六歳にはならない。
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>これを読むと、裴松之は、暗に、明帝は建安十年でなく建安九年に生まれたのではないか、と言っているように見えます。そうすると、明帝の父は文帝ではなく、甄后の夫であった袁煕だったということになりますが、さすがにそこまでは言っていません。
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>曹叡は袁煕の子であるという説の根元は、多分、この裴松之の注にあるのでしょうが、これだけでは、この説を裴松之が言い出したと言うには無理があるという感じです。
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>一体、この説は誰が言い出したんでしょう。
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>この問題は、曹叡は曹丕の子であり、明帝崩御の記事の「時年三十六」は誤りである、とするのが正しいのでしょうが、私は最近、この「曹叡は袁煕の子」説が正しいような気がしています。
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> 委面如墨
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