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民族的融和…
この言葉に違和感を受けたのは、どの観点の、どの視点なんだろう〜という気持ちでしょうね。文献参照しない覚えているだけの内容をつらつらと。
漢代における、南中、益州の南半分、郡で言うなら朱提、越スイより南方は約100
くらいの部族が暮らす地域でした、漢人の流入がはじまり、後漢期には、有力な豪族が誕生しています。そのなかでも、雍氏、孟氏など、他にも5,6は存在していますのちに反劉備政権の立ち位置にたった者たちは、地元の豪族です。
彼らの政治的信条は、複雑ではなく、既得権益の喪失を恐れてのことでした。
ベトナム(現代風な言い方)やインド(現代風な言い方)との交易で得ている利益
それと賦役を無視できなくなるという不安感があったのでしょう。もともと、後漢王朝では行政区分として分類されていながら、この地域はまったくいう事を聞いてません、劉備政権前の、劉焉、璋親子も、何ら施策を打ち出さずに介入しなかったと思います。
南中の彼らを支持している層は、基本、異民族とよばれる、漢人ではない人々です漢人の官吏は、こういった人々に対して非常に厳しい、差別的な対応をしていたため漢王朝や蜀政権の統治に根強い反発があったのではないかと思います。
劉備政権が蜀入り後、すぐに南方への侵攻を模索していましたが、経済官僚の王連をはじめ、軍費が増大することから、既存の益州豪族は反対の意思を表明していますまた、漢中戦や荊州問題などなど、軍事力を割く余裕もなかったでしょう。
劉備が亡くなり、南方豪族は、対蜀政権の姿勢を鮮明にします。
そして南征が起こります。蜀政権は、主要な豪族を取り込むことに成功し、当面の動きを抑えることはできました。諸葛亮は、現地の異民族を官吏にとりたて、そのまま用いる施策を行います、南中の自治に介入しない温情主義をとり、孟獲なども蜀では高位を得ていますが、数多い南方の諸民族は、その後も反発を繰り返しています。異民族地域の統治は魏も呉もひじょーに苦心しています。
有名な七縦七擒、蜀志、諸葛亮伝に記載されていますが、これは、本当かどうか
非常に疑わしいものです、実際にあってもいーんじゃないのとは思いますけど
また、正史の記述ルールには、正式王朝から見た、諸外国の記述が許されており、魏志から見た外国の記述しか残っていないのはひじょーに残念ではあります。なので、南中の歴史や文化について調べるなら、ベトナム史をぺらぺらめくるしかないでしょうね
長文失礼しました。
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