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▼清岡美津夫さん:
>こちらも流れさすのは惜しいので(というか例によって私が知りたいので・笑)、浮上させておきます。曹騰は後漢書、宦者列傳に「曹騰字季興、沛國[言焦]人也。」という感じで、伝があるのですが、夏侯氏との関係は明記されてないですね。三国志魏書武帝紀の注に引く「曹瞞傳」と「郭頒世語」(この2つ、現存してましたっけ?)には曹騰の養子、曹嵩が「夏侯氏之子、夏侯惇之叔父。」って書かれていますが、確かに「なぜ、夏侯氏?」って疑問が残ります。
あ、曹操と夏侯惇の関係、見落としてました。
こんなに身近にあったのに。
ネットで気軽に質問するのは良いですが、
つい相手の好意に甘えて、自分で調べることをおろそかにしてしまいますね。
少し自省せねば……。
さらにそのあと、
太 祖 於 惇 為 從 父 兄 弟 .
と続いてますね。
夏侯淵伝や曹仁伝、曹洪伝にある「族弟」「従弟」とは、
こうした言葉の違いがあるのかもしれません。
余談ですが、
陳舜臣著の『曹操』には、
曹操の父の曹嵩は、実は夏侯家に生まれた。夏侯惇の父と曹操の父とは、
実の兄弟である。曹操の父は、曹家の養子となったのだ。異姓の子を養子
にするのは尋常なことではないが、曹・夏侯両家は、何代にもわたって、
縁組をかさねてきたのである。
とありました。
何を参考にしたのか。
せめて参考文献を載せてくれれば、ありがたいのですが……。
それとも、また見落としがあるのかも。
もっとも、同じ氏の小説『秘本三国志』には、
一説に曹嵩の実家の姓は夏侯だったともいう。
と、極めて曖昧な表現。
まあ、小説ですから……。執筆の時期も違うでしょうし。
宮城谷三国志では、どうなんでしょうか?
また余談ですが、
別冊宝島『三国志曹操孟徳伝』に寄稿された關尾史郎という新潟大学教授の小論によると、
沛国では王氏という豪族が地方の要職をほとんど独占していた、とありました
(これも何の文献かわかりませんが)。
それで父の曹節(宦官ではありません)は、曹騰を宦官にして宮中に送り込んだんだ、と。
もちろん、かれの才覚を見込んでのことでもあったんでしょうけど。
また、安徽省毫州市の郊外での古墳群発掘調査の結果、
積み上げられたレンガ(磚)によって築かれた曹一族の墓室が発見され、
そのレンガには、曹騰・曹嵩の同年代の曹一族の姓名や官職名が刻み込まれており、
その他に夏侯一族の名前や、おそらく曹氏の息のかかった沛国の長官たちの名前、
これに携わった職人たちの作業工程の数字や造られた年代、
かれらの落書きまで(ひょっとしたら職人たちの名前まで)も見つかったそうです。
刻み込まれたレンガは、五百近く発見されたとか。
でも、これだけでは……。
同教授の論文に、
「安徽曹氏一族墓出土文字磚諸論」
というのがあるそうです。
どなたか、ご覧になった方はいますでしょうか?
>宦官がその子弟を地方のポストにつけるってのは当時ではよくあることみたいでしたけど(あ、引用元、省きます。気になる場合は訊いてくだされ)、そういう政治的な意味合いでもあったのでしょうかね。
ちょっとだけ調べたんですが、
桓帝の延熹年間に、侯覧という宦官が関内侯を買って、
その兄が益州の長官を務めてて、
当地の金持ちを罪に陥れて、財産を没収して私服を肥やしていた、
というのがありました。
たぶん『後漢書』宦者列伝の侯覧伝にあると思いますけど。
曹騰は、けっこう優秀な人材を推挙したそうですが、
……本当のところはどんなんでしょ?
他にも、あるでしょうか?
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