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▼すみっこさん:
>はじめまして。
>初心者で恥ずかしいばかりですが、教えていただければ幸いです。
>三国時代にはやりだったという、私学について知りたいのですが、
>細かい記述が見つからず、困っています。
>公でなく、各自で開いていたのなら、自宅で開校していたと
>考えてよいのかどうかとか。
>学塾について、どんなことでもいいので、どうか教えてください。
どうも初めまして。
私はそういう例をあまり知らないんですが、その少ない例の中から持つ印象だと自宅のような気がします。(といっても三国時代じゃなく少し前の後漢末の時代になりますが)
まず馬融・盧植師弟の例です。後漢書盧植伝の冒頭には以下のように書かれていて参考になります。
盧植字子幹、[シ豕]郡[シ豕]人也。身長八尺二寸、音聲如鍾。少與鄭玄倶事馬融、能通古今學、好研精而不守章句。融外戚豪家、多列女倡歌舞於前。植侍講積年、未嘗轉眄、融以是敬之。學終辭歸、闔門教授。
<清岡のテキトー訳>
盧植、字は子幹といい[シ豕]郡[シ豕]の人だ。身長は八尺二寸で、声は鍾のようだった。若いとき、鄭玄とともに馬融へつかえ(師事し)、よく古今の学に通じ、詳しく調べることを好み、章句(文章の段落)を守らなかった(こだわらなかった?)。馬融は外戚(皇后の一族)で豪富の家で、女倡(遊女)を多く連ね、前で歌い舞わせた。盧植は何年もつかえて習っていたが、よそ見をしようともしなかった。馬融はこのため(盧植を)うやまった。盧植が学び終え、辞して帰り、門を閉ざし(家の中で?)教えていた。
という感じで馬融が教えているところと遊んでいるところが密接な位置にあるという印象がありますし、またここにあげた最後には「闔門教授」とあり、自宅で教えていたのかな、という印象があります(開校というか今で言う内弟子みたいな感じでしょうか??)
それとは別に盧植・公孫[王賛]師弟の例だと後漢書公孫[王賛]伝によると
後從[シ豕]郡盧植學於[糸侯]氏山中
<清岡のテキトー訳>
(公孫[王賛]は)後に[シ豕]郡出身の盧植に従い、[糸侯]氏の山中で学んだ
とあって、自宅かどうか判別のつかない例もあります。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/276
↑あ、このことはここのコメント欄で教えて貰いました。
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