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【1628】洛陽の地図について(銅駝街など) 青青生 2005/4/3(日) 2:52 教えて
┣ 【1633】中国の城郭都市 清岡美津夫 2005/4/3(日) 14:23 ひと言
┃┗ 【1634】Re:中国の城郭都市 むじん 2005/4/3(日) 19:01
┣ 【1656】さらに、当時の地図について 青青生 2005/4/7(木) 21:21 教えて
┃┗ 【1663】Re:さらに、当時の地図について 白崎ゆきと 2005/4/10(日) 0:06
┣ 【1664】上記2質問へのお答えへの感謝と、さらにつ... 青青生 2005/4/10(日) 6:25 感謝♪
┃┣ 【1665】感謝と、さらにつっこんで・・(つづき) 青青生 2005/4/10(日) 6:34
┃┃┗ 【1671】失礼しました 白崎ゆきと 2005/4/10(日) 23:52
┃┗ 【1670】Re:上記2質問へのお答えへの感謝と、さらに... むじん 2005/4/10(日) 20:46
┃┗ 【1672】2つの地図 青青生 2005/4/11(月) 5:49 [添付]
┃┣ 【1673】2つの地図(つづき) 青青生 2005/4/11(月) 5:53 [添付]
┃┃┗ 【1679】Re:2つの地図(つづき) 清岡美津夫 2005/4/12(火) 20:08 管理系
┃┃┗ 【1680】Re:2つの地図(つづき) 青青生 2005/4/12(火) 20:21
┃┃┗ 【1682】Re:2つの地図(つづき) 清岡美津夫 2005/4/12(火) 20:56
┃┗ 【1674】Re:2つの地図 むじん 2005/4/12(火) 15:19
┃┗ 【1678】Re:2つの地図 青青生 2005/4/12(火) 19:17 [添付]
┗ 【1713】ありがとうございました! 青青生 2005/4/29(金) 22:55 感謝♪

【1628】洛陽の地図について(銅駝街など)
教えて  青青生 WEB  - 2005/4/3(日) 2:52 -

引用なし
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   いつも本当にお世話になっております。
毎回質問をするばかりで心苦しいのですが、ご教授いただければ嬉しいです。

魏の都・洛陽についてです。
手元の本で、

堀内正範(編著)『洛陽発「中原歴史文物」案内』(新評論1998年)には
「明帝曹叡の時代には、北宮、南宮をまとめて宮城とし、
中央のショウ闔宮門から南へ広さ42メートルの銅駝街を通し、
その両側に官衙を集めて都城は整備された。」とあります。

一方、
『長安−絢爛たる唐の都』(角川書店1996年)所収の、
町田章「中国の都城・日本の都城−その原型と独自性」には
「後漢が滅んで魏が洛陽に乗り込むのですが、
洛陽では後漢時代の宮殿区画をそのまま利用し、
宮殿配置に大きな変更を加えなかったようです。」
とあり、後漢洛陽城と北魏洛陽城の地図が載っています。
(銅駝街は北魏の都の説明のなかに登場。)

「三国志」文帝・明帝紀の洛陽建築の条文には、
銅駝街という名は登場しませんが、
「晋書」恵帝紀には登場します。

後漢の「北宮」「南宮」に分かれた宮殿をまとめて、銅駝街が通されたのは、
魏の時代なんでしょうか?
もしくは、三国時代の洛陽の地図が見られる資料等をご存知でしたら、
紹介してください。
よろしくお願いします。

【1633】中国の城郭都市
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2005/4/3(日) 14:23 -

引用なし
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   http://www.fukkan.com/vote.php3?no=4962
↑お持ちになっているかもしれませんが、事実上、絶版らしい「中国の城郭都市」によると、本文中には銅駝街のことは書いてなさそうですが、
83ページの「図32 漢魏洛陽城址」には銅駝街が書かれてますね。宮城と宣陽門をつなぐ道に「銅駝街」と書かれてます。
86ページの「図33 北魏洛陽城」にも書かれてますね。
…とあまりヒントになりませんが。

【1634】Re:中国の城郭都市
 むじん E-MAILWEB  - 2005/4/3(日) 19:01 -

引用なし
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   こんにちは。
ネット上に転がっている電子テキストを検索してみました。

すると楊守敬『水経注疏』に「渠水はまた枝分かれして道を挟んで南流し、太尉・司徒両坊の間を抜ける。これを銅駝街という」とあり、その疏に引く『続漢書(後漢書)・百官志』の注に引く伏侯の『古今注』に「永平十五年に太尉・司徒・司空府を開陽城の門内に建てた」とありますから、街(十字路)そのものは永平十五年(AD72年)の時点ですでにあったわけです。『水経注』では続けて「かつて魏の明帝が駱駝やさまざまな動物の銅像を昌闔門の南の街に設置したが、陸機は(『洛陽記』の中で)駱駝の高さ九尺、太尉坊に背にして出ており、川(渠水)の西岸に永寧寺があると言っている」とあります。

銅駝街の名が付けられたのはこの駱駝像が設置された後のことだと思いますが、『太平御覧・州郡部』に引く陸機『洛陽記』には「洛陽に銅駝街あり。漢朝が二体の駱駝の銅像を鋳造したもので、宮殿の西南の四つ辻で道を挟んで向かい合っている」とあり、同じく『太平御覧・居処部』に引く華氏(華延雋)『洛陽記』にも「二体の駱駝の銅像が宮殿の南の街にあり、東西で向かい合っている。高さは九尺、漢の時代には銅駝街と呼ばれていた」とあり、これは『初学記』にも引かれていますが、漢代から駱駝像があったような記述になっています。「魏の明帝」は後漢明帝(永平含む)の間違いなのかも知れないなぁという気もします。

『洛陽伽藍記・城内』には「永寧寺は宮殿前の昌闔門を南に一里行った御道の西側にある。その寺の東隣は太尉府、道を挟んで西側では永康里と向かい合い、南は昭玄曹、北は御史台と接している。昌闔門前の御道の東側には左衛府があり、その南に司徒府があり、その南に孔子像のある国子学堂があり、その南に宗正寺があり、その南に太廟があり、その南に護軍府があり、その南に衣冠里がある。御道の西側には右衛府があり、その南に太尉府があり、その南に将作曹があり、その南に九級府があり、その南に太社があり、その南に凌陰里がある」と記されています。

このほか「銅駝街」という語句は『冊府元亀』『初学記』『太平御覧』などに見えているようです。
地図については、たぶん『洛陽伽藍記』(そう高い本ではないです)の良い本なら付いているのではないかと思います。

『水経注疏』http://htsg.ad184.com/UploadFiles/sjzs/sjzs16.htm
『洛陽伽藍記』http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3
『冊府元亀』
『初学記』http://htsg.ad184.com/Article_Show.asp?ArticleID=2261
『太平御覧』
『後漢書』http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3

【1656】さらに、当時の地図について
教えて  青青生 E-MAIL  - 2005/4/7(木) 21:21 -

引用なし
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   清岡美津夫さん、むじんさん、
早速のお返事、本当にいつもありがとうございます!

レスがついてすぐに拝見して、紹介された本を図書館で予約しまして、
その本が届いて内容を見てからお礼のレスをしようと
思っていたのですが、まだ本が手元にありません。
(お礼が遅れてすみません。)

そういうわけで、紹介された資料は未見なのですが、
その上で、新たな質問を加えさせてください。(すみません。)

三国時代の人たちは、どういう地図を使っていたのでしょうか?
もし「○○の後漢墓の壁画に地図がある」
「『中国の地図史』という本がある」等、
ご存知でしたらお教えください。

いつも時代考証系の質問ばかりで、失礼します。
(一応、「地図」で検索してみて、
当時の地図についてのスレッドは無いように思ったのですが、
もし過去スレッドと重複していたら、すみません。。。)

【1663】Re:さらに、当時の地図について
 白崎ゆきと E-MAIL  - 2005/4/10(日) 0:06 -

引用なし
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   後漢・三国の地図ということだと分かりかねますが、
中国で発掘された地図としては、前漢代の馬王堆
(女性のミイラで有名。たい(車+大)侯一族の墓)から出た2枚が有名ですね。
これは絹布に描かれたもので、1つは地形図。
結構正確らしいのと、南を上にしているのが興味深いです。
もうひとつは各地に駐屯する兵力などが記載された軍事地図です。

また、『中国考古の重大発見』によると、
甘粛省天水県放馬灘では秦王政8年の木版地図7点と前漢早期の紙の地図1点が見つかっているそうです。

『中国考古の重大発見』には馬王堆の地形図と、
放馬灘の木版地図の復元図が載っています。
『中国考古の重大発見』は多くの重要な出土物について、
簡単ではありますが言及してますのでなにかと重宝してます。

【1664】上記2質問へのお答えへの感謝と、さらに...
感謝♪  青青生  - 2005/4/10(日) 6:25 -

引用なし
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   ▼むじんさん:
>街(十字路)そのものは永平十五年(AD72年)の時点ですでにあったわけです。『水経注』では続けて「かつて魏の明帝が駱駝やさまざまな動物の銅像を昌闔門の南の街に設置」とあります。
>銅駝街の名が付けられたのはこの駱駝像が設置された後のことだと思いますが、『太平御覧・州郡部』に引く陸機『洛陽記』には
>漢代から駱駝像があったような記述になっています。「魏の明帝」は後漢明帝(永平含む)の間違いなのかも知れないなぁという気もします。
>地図については、たぶん『洛陽伽藍記』(そう高い本ではないです)の良い本なら付いているのではないかと思います。

▼清岡美津夫さん:
>事実上、絶版らしい「中国の城郭都市」

早速のお答え、ありがとうございました!

「銅駝街」じたいは、1世紀からあったわけですね!
今回のことで調べてみたら、後漢明帝は、洛陽の大造営をやった皇帝のようですから、「明帝」間違いという可能性は、本当にありますね!

ご紹介いただいた『中国の城郭都市』P83の「漢魏洛陽城址」図は、
『長安−絢爛たる唐の都』P63の「北魏洛陽城」図とほぼ同じでした。
ただ、『中国の城郭都市』本文を読むと、
「魏の洛陽城は漢の洛陽城郭を踏襲したものであるが、西北隅に突出した金ヨウ城が新たに増築された。〜(略)(北魏は洛陽に遷都すると)漢魏以来の洛陽城の中心である南北二宮の荒廃が著しいため、まず金ヨウ城を修復して宮殿等が再建された。」
とありました。
じつは私は漫画の作画資料としてこれを調べている(魏の都を空撮したような映像を描きたい)ので、とくに問題となるのは宮殿の位置だったのです。
後漢以来の「南北二宮」が、北魏では1つの「宮城」になっているので、それがいつからなのかが、問題なのです。

昨日、自分の本棚をながめて、昔買った
学研「歴史群像シリーズ17 【三国志】上巻」
をパラパラと見たら、巻頭カラー特集に「後漢洛陽城」(杉本憲司監修・文)がありまして、カラーで大きく「後漢洛陽城平面図」が載ってました。
それによると、魏の洛陽は、やはり南北二宮があったようです(銅駝街については記述なし)。
(自分の本棚の本というのも、古いものになると忘れていて、ダメですね。どうもお騒がせいたします・・・)

(長文になったので、次レスへつづく)

【1665】感謝と、さらにつっこんで・・(つづき)
 青青生  - 2005/4/10(日) 6:34 -

引用なし
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   以上から、推測するに、どうやら魏の都・洛陽の地図というものが、以上の本の中には載っていないようです。
おそらく、後漢洛陽城図の西北に金ヨウ城を付け足したものが、魏の洛陽城なのではないでしょうか。。。?
(というか、自分の漫画では、それでいきます。。)

▼白崎ゆきとさん:
>中国で発掘された地図としては、前漢代の馬王堆から出た2枚が有名ですね。
>また、『中国考古の重大発見』によると、
>甘粛省天水県放馬灘では秦王政8年の木版地図7点と前漢早期の紙の地図1点が見つかっているそうです。
>『中国考古の重大発見』には馬王堆の地形図と、
>放馬灘の木版地図の復元図が載っています。

『中国考古の重大発見』、図書館にもAmazonにもないんですが、どういう本なんでしょうか?!
ぜひお教えください!

【1670】Re:上記2質問へのお答えへの感謝と、さら...
 むじん E-MAILWEB  - 2005/4/10(日) 20:46 -

引用なし
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   こんにちは。

うーん、しかし魏の明帝が駱駝像を移したと書いているのは魚豢の『魏略』なんですよね。この魚豢というのは魏の明帝と同時期の人なのでそう簡単に間違えるとも思えない。一方『洛陽記』の陸機も離れた時期の人ではないし…。

1.『洛陽記』の間違い。漢代、洛陽に駱駝像はなかった。だから銅駝街という呼び名もない。
2.『魏略』の間違い。駱駝像はもともと洛陽にあった。長安の駱駝像は移されなかったか、もともとなかった。
3.どちらも正しい。漢代すでに洛陽に駱駝像があり、さらに長安から駱駝像が移された。

さて、どちらでしょう?


検索してみると「八王の乱と禁衛の軍権」という中国の論文が見つかりました。これの注5に、「夏鼐先生は『河南志』中の古代洛陽図に基づいて云々(略)。『永楽大典』巻9561に引用する古代洛陽図14幅および『考古学報』1959年第2期を参照されたし」「王仲殊先生の『漢代考古学概説』(中華書局:1984年)の18ページ目「東漢洛陽城平面示意図」は云々(略)。」「荘春波先生は云々(略)。氏の著作『秦漢武庫制度』および『史学月刊』1991年第6期に見える」とあります。中国の専門誌なので実際手に入れるのは難しそうです。
http://www.xiangyata.net/data/articles/a01/327.html

『魏志』文帝紀の黄初元年十二月に「洛陽に宮殿を創建した」とあり、集解でもいろいろ書いてあるんですが、分量が多いので省略します。南北間は七里、南側には何々殿、北側には何々殿があったといったことが書かれてますね。

【1671】失礼しました
 白崎ゆきと E-MAIL  - 2005/4/10(日) 23:52 -

引用なし
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   >『中国考古の重大発見』、図書館にもAmazonにもないんですが、どういう本なんでしょうか?!
>ぜひお教えください!

タイトルを間違えていました。
申し訳ありません。
正しくは『中国考古の重要発見』です。

内容等については下記のページをご覧ください。

http://www.editor.co.jp/press/ISBN/ISBN4-88888-330-0.htm

【1672】2つの地図
 青青生  - 2005/4/11(月) 5:49 -

引用なし
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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
[削除されました]
   ▼白崎ゆきと:
正しくは『中国考古の重要発見』です。

ありがとうございました!早速見てみます。

▼むじんさん:

専門的に調べていただいて、本当にありがとうございます!
ひきつづき銅駝街について。前のレスで「?」と思ったのですが、

>すると楊守敬『水経注疏』に「渠水はまた枝分かれして道を挟んで南流し、太尉・司徒両坊の間を抜ける。これを銅駝街という」とあり、

勉強不足の私がパッと見、手元の地図を眺めると、この銅駝街の位置は、
北魏の都のメインストリート「銅駝街」と違わなくないですか?

話を分かりやすくしようと、地図をアップしてみます。
まずは
愛宕元『中国の城郭都市』P83「漢魏洛陽城址」です。
(『長安−絢爛たる唐の都』P63「北魏洛陽城」とほぼ同じ)

【1673】2つの地図(つづき)
 青青生  - 2005/4/11(月) 5:53 -

引用なし
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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
[削除されました]
   つづいて、
学研「歴史群像シリーズ17【三国志】上巻」P13「後漢洛陽城平面図」
(『長安−絢爛たる唐の都』P59「後漢洛陽城」とほぼ同じ)

管理人様へ。
画像は2つとも、本からスキャンしてしまったものです。
著作権に抵触すると判断された場合、削除してください。
よろしくお願いします。

【1674】Re:2つの地図
 むじん E-MAILWEB  - 2005/4/12(火) 15:19 -

引用なし
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   こんにちは。

>>すると楊守敬『水経注疏』に「渠水はまた枝分かれして道を挟んで南流し、太尉・司徒両坊の間を抜ける。これを銅駝街という」とあり、
>
>勉強不足の私がパッと見、手元の地図を眺めると、この銅駝街の位置は、
>北魏の都のメインストリート「銅駝街」と違わなくないですか?

map-rekisigunzou.jpgが三公の府を洛陽城東南に推定しているのは、伏侯『古今注』に「太尉・司徒・司空府を開陽城の門内に建てた」とあるのに拠ったのだと思います。

しかし『水経注』『洛陽伽藍記』の記述はmap-joukakutosi.jpgに近いです。渠水というのは穀水から水を引いて作った運河のことで、これは宮城の西面に沿って北から南へ流れています。『水経注』に「南流して東に転じ、昌闔門の南を経る」とありますが、洛陽で昌闔門と呼ばれているのには外城西門と宮城南門の2つがあり、ここでは宮城南門のことを言っています。

『水経注』では続けて「魏の明帝が漢の崇徳殿跡地に太極殿を建てた場所で、漢の時代には洛陽宮殿の題額は蔡ヨウらによって大篆で書かれていたが、董卓が宮殿を燃やしたのち、魏の太祖が荊州を平定すると、梁鵠の書を愛して彼に八分書を書かせた。北宮の題額の多くは梁鵠の書である。南宮が建設されると、明帝は韋誕に篆書を書かせ、都が洛陽に移されると中書舎人沈含馨に隷書を書かせ、景明・正始年間、符節令江式に大篆を書かせて旧に代えた。公のもろもろの題額はみな江式の書である」「渠水は(ここで)また枝分かれして、(一方は)道を挟んで南流し、太尉・司徒両坊の間を抜ける。これを銅駝街という」とあり、

「(もう一方の)渠水は銅駝街より東流して司馬門の南を経る。魏の明帝が宮門を築こうとしたとき、数百人が圧死する崩壊事故で建設中止となったため宮門がないのである。門の南は翁仲の銅像が置かれていた場所である。ここから南へ宣陽門に直結している。往来は禁止されており、曹子建はその禁を犯したため遠ざけられた。渠水はさらに東流してテキ泉の北を経過、司空府の前を通り、太倉を経て、南流して東陽門の石橋へ出、陽渠に注ぐ」とあります。

【1678】Re:2つの地図
 青青生  - 2005/4/12(火) 19:17 -

引用なし
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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
[削除されました]
   ▼むじんさん:
>map-rekisigunzou.jpgが三公の府を洛陽城東南に推定しているのは、伏侯『古今注』に「太尉・司徒・司空府を開陽城の門内に建てた」とあるのに拠ったのだと思います。
>しかし『水経注』『洛陽伽藍記』の記述はmap-joukakutosi.jpgに近いです。

本当に丁寧な説明と引用、本当にありがとうございます!

つまりmap-rekisigunzou.jpgの太尉・司徒府の位置はおおよその推定で、
より正確なのは『水経注』『洛陽伽藍記』だということですね?

渠水と銅駝街、三公の府の位置関係が分かる地図を見つけたので、
アップしてみます!
(もはや学校の先生に頼る子どものようなイキオイで、すみません。。)

中国古典文学大系21『洛陽伽藍記 水経注』平凡社1974年
の巻末の地図(部分)です。
(『洛陽伽藍記』は東洋文庫の全訳版を見たいと思ったものの、地元の公立図書館の蔵書に無かったため、断念しました。。。)

【1679】Re:2つの地図(つづき)
管理系  清岡美津夫 E-MAIL  - 2005/4/12(火) 20:08 -

引用なし
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   どうも、管理メンバーの清岡です。
発言の責任や削除の判断を管理側に押しつけられても困るのですが。

参照リンクあげときますね。
参考
http://www.cric.or.jp/
「社団法人 著作権情報センター」
「著作権Q&Aシリーズ」→「マルチメディアと著作権 QAページ」→Q14

添付ファイルの削除依頼はうけつけますよ。
<sage>

【1680】Re:2つの地図(つづき)
 青青生 E-MAILWEB  - 2005/4/12(火) 20:21 -

引用なし
パスワード
   ▼清岡美津夫さん:
>発言の責任や削除の判断を管理側に押しつけられても困るのですが。
>添付ファイルの削除依頼はうけつけますよ。

本当に申し訳ありません。
自分の判断で著作物を引用・アップロードしました。
この件の責任は、一切が青青生にあります。

画像や記事の削除は、投稿した本人でも作業できるのでしょうか?
<sage>

【1682】Re:2つの地図(つづき)
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2005/4/12(火) 20:56 -

引用なし
パスワード
   >画像や記事の削除は、投稿した本人でも作業できるのでしょうか?

どもども。
画像のみの削除は投稿した本人ではできません。管理側ではできるようになっています。
記事の削除は可能です。
(以前は、レスがつくと消せないようになってました)
添付ファイルも含め修正ができるような機能があれば便利なんですけどね。
<sage>

【1713】ありがとうございました!
感謝♪  青青生 WEB  - 2005/4/29(金) 22:55 -

引用なし
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   たくさんお答えいただき、ありがとうございました!

紹介いただいた『中国の城郭都市』にくわえ
『中国の都城2 長安・洛陽物語』集英社1987年
という本を見つけて読んでみましたが、
上記にある以上の宮殿や街路についての情報はありませんでした。

白崎ゆきとさんにご紹介いただいた
『中国考古の重要発見』で地図を見ることが出来ました。

また、清岡さんには、地図画像の削除、お手数をおかけしました。
本当にすみませんでした。

お礼が遅くなりましたが、紹介されたものを拝見し、
勉強?した経過はそんなかんじです。
調べていて新たに何か分かったら、
こちらにレスを付けることにします。

ありがとうございました。

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